Scribble at 2024-05-18 16:50:50 Last modified: unmodified

ここでも何度かご紹介したことだが、レトリックの手法として "loaded language" というものがある。これは、認知バイアスやクリティカル・シンキングにおいては「フレーミング」や「アンカリング」あるいは "theme-setting" などとも関連していて、偏った表現を自然な言い方であるかのように使うことで、読んでいる人々の判断基準を歪めてしまう。

たとえば、「保守化」という言い方がある。しかし、たいていにおいて人は(そして大多数の他の動物もそうだと思うが)これまでに自分がやってきたことを理由もなく変えたり止めたりはしない。したがって、人の行動や生活や思考や判断というものは、多くの場合において過去と同じことの繰り返しであろう。これまでの習慣を変えずに生活しているというだけで「保守化」しているなどと言われても、われわれは何か積極的に保守「化」しようと意気込んで従来のやりかたに固執したりしがみついているわけではない。だが、従来のやりかたを変えずに、誰かが提案している別の、新しいやりかたへ従ったり許容しないというだけで、「保守化している」などと言われたり、場合によっては非難されることさえある。まるで、いちいち何か新しいことが提案されたら、生活の仕方や判断の基準を変えたり捨て去らなくてはいけないかのような、僕に言わせれば極めて歪んだ価値観が当然であるかのように押し付けられるのだ。

しかし、人の判断基準や生活習慣というものは、それをわざわざ「伝統」などと祭り上げるかどうかはともかくとして、そう簡単に変えたり変わるものではない。なぜなら、これまでそれで大過なく過ごしてこれたという圧倒的な事実がある以上、それを変えたり捨て去ってしまうと、それによって何かが良くなるかもしれないが、しかし他方で何かが悪くなるかもしれないという、つまりは正しい意味での「リスク」(不確実さ)が高まるからだ。言っておくが、僕らのような保守の人間は、新しいことや違うことに取り組むというだけで何かが悪くなると思っているわけではない。もしかすると事態は改善されるかもしれないが、本当にそうなのかどうか分からないという状況においては、軽々しく基準や習慣を変えたり捨てるわけにはいかないと思っているだけなのである。

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