Scribble at 2024-05-18 15:38:18 Last modified: 2024-05-19 10:07:53
以下の内容でお分かりのとおり、このページで僕は学術論文を書くことは目的としていないので、既に分子生物学なり死生学なり精神医学で色々な成果があるのは分かっていても、まずは僕自身が何をどう考えたかを一つのケースとして公表することとした。これが、誰かの役に立つかどうかは分からないし、万一役に立ったとしても何らかの精神状態の一例として参照されるだけかもしれないが、少なくとも僕自身の考察として公表することにも何ほどかの意義はあろうと思いたい。
アーネスト・ベッカーの有名な著書である『死の拒絶』の翻訳書は、図書館には所蔵されているようだが、手に入れようとなると相当に高額なプレミア価格が付けられているようだ。もちろん、ペーパーバックで復刊された原著は所持しているけれど、それなりに読むのは辛い。そんなこんなで、PHILSCI.INFO で公開している上記の論説を書き継ごうとしていたのだが、彼の著書にもとづく議論を展開するのは保留しておいた。また、彼のアイデアに強い影響を受けた TMT (terror management theory) についても、研究者のグループによる著書は翻訳で所持しているのだが、それ以外に何か関連する著書があるかというと、はっきり言ってない。
とりわけ日本では、死生観にかかわる本というものは、雑なエッセイばかりがバラ撒かれていて、学術的な成果は殆どないし、思想という次元での有益な著作物もない。正直、坊主のエッセイなんて読んだってしょうがないんだよな。それから、仏教はともかくとして、日本で普及している神道を初めとする宗教には、気晴らしになるほどの壮大な建築物や宗教音楽の伝統もなければ、海外でなら学者を自称する素人思想家の集団がよってたかって暇潰しに時間を費やせるような、古典的著作物の山もない。そういう意味では、宗教的感情とか習慣のようなものはあろうと、制度的かつ伝統的に固く信じられているような信仰が弱いか無いと言えるわけなので、逆に言えば死という観念についての恐怖心が強いために最初から忌避する傾向があるのだろう。SNS ではガキでも気軽に「氏ね」などとスマホの画面をタップしているわけだが、実際にそれをイメージしたり茶の間で話題にすることなど、海外に比べたら殆どないわけなので、それゆえ気軽に、まさしく呼吸するように「氏ね」などと言えるのだろう。
この国では哲学どころか宗教学においてすら、殆ど死が語られることはないし、たぶん考えてすらいないだろう。よって、上の論説でも書いたように、そうした「死の思想における未熟児」どもにとって、死というのは単純である。つまり、そこへ至れば怖いもクソもないようなことでしかないのである。よって、イメージしたり怖がったりするのは無意味であるというわけだ。そうであれば、なるほど TMT どころか死についての著作が一時的な風邪のように意識から過ぎ去ってしまい、どこそこの大学で学生に熱狂的な支持を集めた、どういうわけか何種類かの体裁で発売されている「死」についての講義録がガキにどれほど売れていようと、結局は何の社会科学的なインパクトもなければ、当然ながら思想・哲学としての蓄積もないわけである。死ねば終わりだし。
とは言っても、そんな状況だからといって、この国に強い関心を抱いている人が全くいないかのように蔑んで過ごすのも愚かであろう。もちろん、僕はなにも PHILSCI.INFO で掲載している論説を、いくらかでも関心を抱いている人々のためにわざわざ書いているわけではなく、数日前にこちらの落書きで述べたように、自分自身のために書いているわけだが、それでも何らかの参考にしてもらえるのであれば、恥をしのんで公表することにも何らかの意義があろうと思う。学術的な文献としての水準にはないし、たぶん思想としても未熟なものであるに違いないが、なんにも書くことがないか書くほどのものを持っていない連中に比べたらマシであろう。
これは昔から言っていることなので繰り返しておくと、画面のそちら側で哲学プロパーがどこそこ大学教授としてこういう文章を冷笑していようと、僕の文章を凌駕する成果を実際に学術論文や著書として世に出していなければ、君ら大学教授は結局のところ公的には存在していないも同然なのだ。学者は、学術成果と大学での教育という業績だけが存在価値なのであって、それ以外に君ら大学教員の値打ちなどない。成果を出していなければ、大学教員として生きている意味はないのだ(まぁ、だからこそ、TMT として素人やアマチュアをあざ笑うことしかできないのかもしれんがね)。ともあれ、メタの議論で僕のようなレベルのアマチュアに凌駕されるのが悔しいのであれば、やはり業績を上げるしかないのだ。
まぁ、そんなこと言ってるうちに、お互いに死んじゃうからどうでもいいと思ってるんだろうけど。日本の哲学プロパーなんて、加藤尚武氏ら一部の人々を除けば、真剣に生きる糧として哲学なんてやってない洋書批評家なわけだし。せいぜい、癌とかになって本を書かせてもらうチャンスでもなければ、なんもせんだろう。