2018年01月26日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-26

僕は漠然と学問における権威主義を一つの擬制として認めている。一定の条件を満たしてしかるべき地位にある者には、その境遇や身分に応じた権威と責任が伴う。これは「権利と義務」よりも弱い規制だが、やはりそう期待して権威を認めるのにやぶさかではない。どういう経緯であろうと、或る社会的な境遇として他人よりも並外れて恵まれている人間には、そういうチャンスを大勢について作ろうとしても作れないのだから、責任を伴うのはもちろんだが、一定の自由を保障した方がよいのであって、いたずらに妬んだり足を引っ張るべきではない。

たとえば僕の大学院時代の先輩には、「一ヶ月の書籍代が数百万円にもなると、さすがに親に文句を言われる」と嘆いているような人がいたわけだが、そうした人々の恵まれた境遇をやっかみ、影であれこれと無駄な罵倒を続けるくらいなら、彼らへ境遇に応じた責任と権威を付託する方がよいのであって、彼ら金持ちから資産を取り上げて国民全員の生活費が数千円ていど増えたところで、世の中など何も変わりはしないのである。実際、社会主義を謳っている数々の国においては、労働者の代表である一部の特権階級が存在して皮肉にも富を独占するからこそ社会が維持されている。

もちろん、何度も言うように権威には責任が伴う。責任を果たしていない者は、一定の期間や手続きを経て評価され、社会なり学界なり大学なり研究ユニットに貢献していなければ排斥される。重要なのは、もちろんフランス革命のようにギロチンにかける必要はないとしても、適性に「恵まれた境遇に生まれただけの無能」を選り分けて、権威ある立場から即座に排除する仕組みがなければ、これはただの貴族政治や封建主義の焼き直しでしかないということだ。そして、昨今のマスコミのように、ものごとを適正に評価する教養も学識も資格もない、つまりは「権威を値踏みする権威」のない連中が勝手に裁判をしないことも重要だ。権威を値踏みする権威というものは、学者なら学士院というわけでもなく、現実には当該分野のコミュニティと言ってよいだろう。それゆえ、まず学術研究者は同じ分野の研究者に対するアウトリーチこそ優先するべきであって、通俗書など書いている暇などなくなる。そして、そうしたアウトリーチを担うのは、助教や博士課程の学生であってもよいだろう。彼らが研究の価値を誤解しないように、正確に理解させたり納得させるのは、もちろん指導教官の責任である。

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