Scribble at 2022-05-16 13:36:52 Last modified: 2022-05-18 10:13:57

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英語が読めるようになって分かったのは、元の文体が昔でいえば田辺聖子、遠藤周作、北杜夫のエッセイのような軽いタッチで描いてるのに、それが全く伝わってこない日本語文になってる薬があることだ。

訳が固いのは仕方がないか

もちろん僕自身についても同じことが言えるだろうけど、他人に対して批判したことを自分自身について改められない人って、なんなんだろうなと思う。

このレビューはトクヴィルの『アメリカの民主主義』(講談社学術文庫、全3巻)について翻訳の批評をしているのだが、レビューの前半で「もう少し、一度訳したものを3か月くらいおいておいてから、フレッシュな目で見て、『現代日本語として読みやすい』文章にならないものだろうか。」と書いている人物が、次の段落では上で引用したとおりの決定的な間違い(翻「訳」についてのレビューを書いていながら、この間違いは日本語話者として致命的であろう)を放置しているのだから、どうにもウンザリさせられる。自分で書いた文章を、送信ボタンを押す直前とか、アマゾンで掲載された後にでも読み返さないのだろうか。あるいは、一定の日数が経過してから読み返したり。

僕が当サイトのここで書いている〈落書き〉は、大してアクセスもないだろうし書いていることも放言や侮蔑があって相当にカジュアルな文章ではあるけれど、なんだかんだいっても書いた後に何度か読み返すし、それゆえに記事のタイトル(これはタイトルから自明なように、初出の年月日で「2022年05月16日に初出の投稿」と表示している)と下に小さく表示している最終更新日("Last modified: 2022-05-16")とで日付が違っている投稿も多いと気づく人がいるだろう。こんな落書きでも、それなりに推敲したり訂正しているのだ。こんなことは、何も僕が学術研究者だからでもなければ、自分自身の文章に対する歪んだプライドやナルシシズムゆえでもなく、人として公にした文章は可能な限り改善して、過去に読んだ人が読み返して修正に気づいてくれるチャンスはなくとも、将来に新しく読む人にまで未修正のまま読まれるべきではないという話にすぎない。

なお、この翻訳(井伊玄太郎訳)については「悪訳」という評判があって、岩波文庫から出ている同じ著作からの新訳本では、先行業績として井伊玄太郎訳が紹介すらされていないという。つまりはトクヴィルの翻訳としては黙殺されるべしということである。僕ら科学哲学の業界で言えば、常石敬一氏(トマス・クーンとジョン・ロセーの翻訳)や藤川吉美氏(ヒラリー・パトナムの翻訳)といった、或る種の有名人が相当するだろう(僕個人の評価として言えば、翻訳が下手な人は他にもいるがね)。こういう事情があってか、アマゾンでは他のレビューでも酷評されていたりするのだが、そういう厳しい評価を書いている人物に限って、「この井伊玄太郎訳で上刊途中まで読んだところ」などと書いて平気なのだ。翻訳の是非については確かに批判したくなるのも分かるが、それでも恥を知れと思う。

僕は井伊玄太郎訳の講談社学術文庫しか持っていないため、松本礼二訳の岩波文庫は参照していない(アマゾンの「試し読み」は機械的に冒頭の数ページを〈出力〉しているだけなので、凡例や目次で終わっていて訳文は冒頭の箇所すら比較しようがない)。そして、何冊もこの手の大部の本を読み比べるだけのお金も時間もないので、たぶん松本訳は買いも読みもしないはずだから、異なる(あるいはベターな)訳を読むことになる方々には、翻訳についてどうこう議論するのもいいが、結局はそこからどういう業績を上げるのかという決定的で本質的なポイントを外さないよう、お勧めする。翻訳マニアでもあるまいし、社会科学者、そして社会科学の本を読む人は、もちろん間違った訳本を読んで間違ったことを考える愚を避けたいのは分かるが、それを自分では判断できないからこそ、そもそも翻訳を読んでいるのだろう。そして、間違っているかもしれない結論や考えというものを自ら疑い吟味する力がない限り、何千冊を読破しようと、それは「編集工学」のようなインチキと同じで、ただの読書マニアにすぎない。本当の目的に何が貢献できるかを考えるべきだ。

あとトクヴィルの本書(『アメリカの民主主義』という著作。翻訳のことではない)について最後に短くコメントしておくと、本書はトクヴィルがアメリカで見聞した事情を帰国してからまとめなおして解説したものであり、大部の著作として色々と興味深い記述があるため、もちろん「古典」として評価されることに疑問の余地はない。ただ、本書が評価される脈絡は偏っている場合も多い。なぜなら、本書ではアメリカの制度や生活を紹介しながら、平等、自由、要するに「民主的」と呼ばれている幾つかの観念について〈トクヴィルが相対化してくれている〉(必ずしも「良い」ものではない)という、ネオコン的なスケベ根性で評価している人が多いのだ。したがって、本書を評価すると言っている人には、臆面もない民主主義者か隠れたネオコンかという両極端の動機がありえるので、迂闊に同意せず注意するべきだろう。

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