Scribble at 2020-06-11 07:58:49 Last modified: unmodified

よく言われることだが、テレビや新聞で報道を担当している部署の記者や編集者という人々には、「ニューズ・バリュー」という価値の基準があるという。そして、この基準が何であり、その是非が(少なくとも公に)議論されてきた試しなど一度もないというのが僕の50年以上にわたる経験からの結論だ。これでも《それなりの学識》と《それなりの(新聞社に勤めている大半の人間を凌駕するていどの)学歴》をもつ人間として、小学生の頃から大型書店や図書館に足を運び、それこそエロ本から哲学書まで膨大な出版物を眺めてきているが、これまで新聞社やテレビ局が自分たちでどのような基準をもって取材したり記録したり記事や番組を制作、作成してきたかを、正確かつ丁寧に論じる著作というものは、はっきり言って皆無だと思う。ジャーナリストと称する人々が自分の新聞記者時代やテレビ局員時代の経験に照らして批判的な議論をするという事例はいくつかあろう。それこそ、信夫君ですら書いているくらいだ。しかし、そんな場当たり的な批評など産業としてのマスコミには何のインパクトもないし、しょせんは《戦線離脱した卑怯者の理屈》として捨て去られるのが、サラリーマンの滅私奉公的な集団催眠というものである。このような集団催眠に陥っている人々に対抗するには、中途半端に経験者だと言って特権的な立場からの議論ができるかのような、これまた日本のマスコミや出版社が長らく続けている通俗経験主義とか現場主義というべきものを退けて、もっと効果的なアプローチを採用するべきであろう。

先月の末から続いているアメリカでの事案についても、いまだに日本のマスコミでは「デモ」と「暴動」をセットにして「報道」しているが、それは本当に現地の様子を正確に伝えている《報道》なのか? これでは、国内でもアイヌや在日朝鮮人に対するヘイトだとか、他の国から来ている労働者や留学生や技能実習生に対する人種差別、それから性差別から部落差別から片親差別などさまざまな事案がどれほどあっても、「ニューズ・バリュー」だの「テレビ映え」だの「印刷映え」だのを持ち出されて全く報じられないという現状がある。そして、実はこれらの事案にも言及してますよという《アリバイ工作》に使われているのが、SNS なのである。SNS で適当に記者個人に部落差別や女性差別に言及させることによって、新聞社もちゃんとそれらに目配せしているというポーズがとれる。もちろん、話題によっては社員が攻撃されるというリスクが増えるのだが、実際のところ経営陣にとって末端の部品が摩耗しても交換すればいいだけなのだし(特に女性アナウンサーについて、テレビ局は明らかにタレントと同じく《消耗品》という扱いだ。いまだにアナウンサーのスケベ写真集をせっせと出版しているのだから。こんなことをしているのは、もちろん世界中でも日本だけである)、報道機関としてのプレゼンスを確保できるなら社員などいくらでも取り換えていいという方針なのだろう。そして、これも結局は企業経営としてあたりまえのことだが、従業員に固有のスキルやタレントというものがないからなのである。なんの学識があるかもわからないただの大学生を一括採用して研修をしたていどで「ジャーナリスト」の出来上がりなどという、恐るべき《工場》を何十年も稼働させているのも、日本だけであろう。

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