Scribble at 2021-09-18 23:11:37 Last modified: 2021-09-23 23:47:59

添付画像

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ひとまず後半は急ぎ足で目を通して、マイクル・E・レイナーの『戦略のパラドックス』は読了した。次に買ったばかりの『思考スピードの経営』(ビル・ゲイツ)を読もうかと思ったのだが、予想外に分厚いのと、なんだかノウハウ本に近い些末な印象を受けたという二つの理由で、いったん保留にした。いますぐに目を通さなくてはいけないような、定番とか基本書とか古典と言えるようなものではないと思う。

そういうわけで、次にフレデリック・ラルーの『ティール組織』を読み進めている。以前に目を通したときも簡単に脈絡を調べたのだが、ともかく元マッキンゼーのコンサルという経歴でありながら new thought と呼ばれるアメリカのキリスト教系カルトや、マズローのようなインチキ心理学、あるいはケン・ウィルバーという、これまたインチキ心理学の一種とされるトランスパーソナル理論などの主張を色々と盛り込んだ、経営学の組織論におけるニセ科学の見本みたいな本である。本書では「レッド」から「ティール」まで組織の発展段階が色として分類されているが、それぞれの特徴が現在の組織にも現れるという。つまり、現代の先進的な企業においても大昔の未熟な組織形態であるレッドの様相が現れることだってあるらしい。よって、「ティール」の組織でも1から100まで全てにおいて先進的なのではないというのだが、もしそうなら自己破壊的だと言わざるをえない。なぜなら、自分の議論にとって都合がいい結果を(一時的にであれ)出している企業の事例を集めてきただけだと言われても反論できないからだ。こんなことすら脇の甘い留保をつけて反論を迂回したつもりになっているのだから、学術研究や論文を書く訓練を受けたことがない経営コンサルの議論というものが、いかに学卒レベルの未熟なものかということが分かる。

でも本書は、アメリカの amazon.com では7割、そして日本の amazon.co.jp でも5割のカスタマーが星5をつけている。それもそうだろう。いまやカルトと正統なキリスト教の違いもわからなくなっているアメリカ人(というか amazon.com で買い物ができるならインド人やカナダ人や中国人も含まれるが)が、Robert Wright のアマチュア仏教本や本書に〈イカれる〉のは仕方ないのかもしれない。また、日本でも本書を絶賛しているのは企業就職どころかサークルやクラブ活動で下級生を指導したり引率した経験すらないくせに独立意欲や起業で大金持ちになりたいという欲望だけは一人前の学生が中心だし、いい歳をした大人でもだいたいはマネジメントの経験がない会社員か、あるいは派遣社員と思われる人々が、現状の企業社会を DIS るための道具として使っているように見受ける。そういう鬱憤が溜まっているという状況そのものは、おおいに同感だし気の毒なことも多いだろうとは思うので、本書の内容について是非は別としても、こういう本に多くの人が魅力を感じているという実情は、よくよく理解する必要がある。

この訳書の発行元である英治出版という会社は、こういうものを翻訳するどころか、読書会みたいなものを主催したり、虎の巻みたいな通俗本まで出すのだから、守銭奴とまでは言わないまでも、或る意味で徹底したビジネス・ライクさに恐れ入る。ただ、出版社一つだけの問題でもなく、コヴィーの『7つの習慣』やアーヴィンジャーの『自分の小さな「箱」から脱出する方法』のような、あからさまにモルモン教の影響下にあると思われるような著作でも、日本の出版社は全く意に介さずに翻訳してしまう。いや、他にも『イノベーションのジレンマ』でお馴染みのクリステンセンにしたって、モルモン教徒だ。経営学には、経済学の系譜、社会学の系譜、心理学の系譜などという〈カマトト〉の分類があるらしいのだが(入山章栄氏の著作など)、実際にはアメリカ人も日本の経営学プロパーも、「宗教」という系譜については全く触れようとしない。経営戦略を分類した著名な本としてミンツバーグの『戦略サファリ』が知られているけれど、宗教という脈絡での解説は示唆すらされていない。アメリカ経営学における宗教の影響力は、まるで経営学における最大のタブーであるかのようだ。もちろん、宗教的な信念だけにもとづいて経営を語るようなプロパガンダを出版していると安易に断定はできないのだが、そうであるかどうかを調べようともしないのが経営学という学問の現状である。(このような事実も、僕が経営学を社会科学として未熟だと思う理由の一つである。)

よって、アメリカの有名な経営学者だのメンターだのコンサルだのと言われても、やはり僕は最初に経歴が気になる。というか、なんで日本の勤め人というのは、こういうことを気にもしないで読む気になるのか、よく分からない。文字列としてだけ〈良さげ〉なことが書いてあれば、その動機や意図や根拠に何があろうと、理路整然とさえしていればどうでもいいのか。伝統的な浪花節の日本人というのは、非科学的だろうと差別だろうと何を書いていようと、動機さえ純粋で善意だったら許すという精神性をもっているとされるのに、今度は動機がなんであれ書いてあるリテラル文字列さえ〈良さげ〉ならどうでもいいのだろうか・・・これでは、民族規模の精神分裂だ。まぁ、どこの国でも凡人なんてこのレベルだが(僕も或る点では他人事ではないかもしれない)。

しばしば日本人は宗教においての信仰心が薄いなどと言われるが、僕はそんなことはないと思う。皮肉にも欧米では宗教そのものが凡庸な人々にすら知識や思考の力を知らしめてきた歴史があり、恐らくは中国を含むアジア圏でも多民族の地域で交流したり生き残るために知識とその言語表現の力を利用してきた歴史があろう。つまるところ、信仰のあるなしではなく、日本のとりわけ凡俗の多くには、知識や思考を糧や道具として切実に求めたり守ったりやり取りしたり確立してきた歴史というものがないのだ。そして、古来より宗教の教えは或るていどまでは知識を正当化する権威だった。よって、日本でも昔から他の国や民族と交易を続けてきた地域の人々にこそ、何か特筆するべき伝統とか成果が残っているかもしれない。なんにせよ、ひとまず『ティール組織』を丁寧に読み進めてみる。分厚いわりに妥当な論述が見受けられないようなら、見掛け倒しということになろう。

[追記:2021-09-19] 読み進めてくると、全体と一つになるだの、超越的な何かと一体になるだの、これは組織論の本なのか、それともエヴァンゲリオンの映画評論を読んでるのかわからなくなってくる。哲学者として、冷静に(あるいは閉口したり噴き出さずに)読み進めるのが非常に難しい本だ。いま第II部の事例紹介に読み進めたところだが、2年半で12社を取材したなどという、はっきり言って学術的には雑としか言いようがない調査を元にしているのだから、これは結論ありきの〈裏取り〉に過ぎなかったのだろう(1社あたり2ヶ月で組織を把握できる文化人類学者や社会学者など、いかに有能でも存在しない。そういうのは、たいてい思い込みか、会社側から提供された資料だけで分かったつもりになっているマッキンゼーみたいなコンサル、ああ、この人は元マッキンゼーだったな)。

それから、他にも参考にしたらしい、日本のオズビジョンという会社の名前が出てくる。僕は、その日本でネット・ベンチャーの部長をやっている者だが、はっきり言って社名もサービスも聞いたことがない。実際、指標の一つと言ってもいいが、この会社の公式 Twitter アカウントはフォロワーが500人程度(参考として、弊社が運営しているサービスの1部署で運営しているアカウントですら1,000人以上のフォロワーをもっている)、ビジネス上でのお付き合いとしてフォローすることが多い Facebook でも1,700人くらいだ(同じく弊社のサービスの公式アカウントでは2,200人)。この会社が運営している「ハピタス」というサービスのサイトも見たが、いかにも古臭いサイトの作りで、そもそも何のサイトなのか説明がどこにもない。とりあえず調べてみると、アンケートに答えたり買い物したり友達を誘ってユーザ登録などすると、そのサービス・サイトで利用できるポイントがもらえる。既に10年くらい前に「サイバー内職」などと揶揄された事業の一種だ。BOP とまでは言わないまでも、些末な作業の繰り返しで少額の小遣い稼ぎすることが利用実態なのだから、富裕層が絶対に利用しないサービスであることは確かだろう。それはそうと、ログイン画面に「※ドル箱のID・パスワードをご利用頂けます」などと書いてあるが、何のことだろう。OAuth などが利用できる既存のログイン情報を流用してポイントを貯められる「ドル箱」になるかどうかなんて、前もってどこの認証情報を利用できるか明示しない限り分かるはずがないではないか。(後で分かったが、この「ドル箱」というのはハピタスの旧名称らしい。初見の人には全く理解不能で、人を迷わせる文言だ。)

それから僕がよく分からないのは、失礼だが日本語の読み書きが全くできないと思われる『ティール組織』の著者が、どうして上場してもいないこんなマイナーな会社の情報を、それこそ組織の仕組みや運営方法といった内部情報に至るまで入手できたのかということだ。これは、『ティール組織』で取り上げられている他の企業についても言えると思うが、要するに会社側からの広報や company profile(たいていは、嘘とまでは言わないまでも願望にすぎない経営方針やマネジメントが書いてある)を元に著者が単に釣られただけの話ではないのか。実際、たとえば経営学の著作ではお馴染みの S&P500 を調べ上げた末に選び出された会社を数え上げて紹介しているというなら分かるが、著者が希望する組織の特徴をもつ会社の紹介事例だけをかき集めたというのであれば、それは社会科学と呼べるレベルの調査ではない。そんな杜撰な調査をもとにして語られる、どこに実態があるのかも不明な組織の話なんて、著者が望むこれぞという組織の理想的な姿と、企業がアピールしたい自社の姿とがうまい具合に利害として合致したというだけの「ディール組織(deal organization)」と言うべきだ。

[追記:2021-09-21] 僕が昔から、『ティール組織』などで展開されている「労働」とか「仕事」についての価値観で分からないのは、次のようなことだ。つまり、何らかの特別な事情や条件により働くのが楽しいという場合もあるのはいいとしても、働くことが楽しくなくてはいけないというのは理解不能である。ましてや、仕事が自分の人生の一部であるのは物理的にも概念としても自明である筈なのに、それをわざわざ人生の一部として楽しむべきだと言って、たとえば「ワーク・ライフ・バランス」という発想そのものを端的に否定しようとするなど論外だろう(つまり仕事が憎むべき労苦だからこそバランスをとる必要が生じるのだという理由で)。よって、家庭生活の延長として仕事に取り組むとか、仕事の延長として家庭生活を送るといった、僕に言わせればブラック企業がリモート・ワーク以外の実生活でも仕事をさせるための口車としか思えない理屈を理想だとまくしたてているようにしか思えない。ティール組織は会社や組織を生命体だと説明するが、それはつまり会社を『スター・トレック』に登場する侵略生命体の「ボーグ」などに見立てているのと同じであって、これは大昔からカルト宗教団体やテロリスト・グループが理想としてきた組織論のコピペである。なぜなら、教祖やリーダーが命令しなくても自発的に他人を勧誘したり壺を売りつけたり、あるいは幼稚園に通う自分の息子に爆弾を抱えさせて自宅近くのレストランへ突っ込ませても、直に命じた証拠がないために罪を逃れられるからだ。つまりは、アメーバ経営にも言えるが、社員が勝手に組織全体のことを考えて自発的に動くのが理想だなどと言っている経営者は、経営を放棄したも同然の無能であるか、または責任を取らずに何事か(その大半は営業マンの強引な勧誘や、家族とか知人をマルチ商法で巻き込む違法行為だ)を他人にさせようとする人間のクズと同じである。

少しでも調べてみたら誰でも分かるはずなのだが、たとえば "reinventing organizations" という原著のタイトルや著者名で検索してみたらよい。Google のオプションで "site:.edu"(アメリカの大学サイトだけを検索の対象にするオプション)としてみたら更にはっきりするが、この本について言及しているのは、要するに三流大学か或る種の宗教系の大学ばかりだ。New York Times のような大手の新聞サイトで検索しても、書評は確かに1つだけヒットするようだが、それから後は書名や著者名を記事の中で使っている事例は一つもない。批評したり例示したり揶揄するためにすら言葉として出てきていないのだから、これは完全に言及すること自体が避けられていて黙殺されているということだ。加えて、原著が出版された後に発行された組織論の大学テキストを探しても、Clegg, Kornberger, and Pitsis (2016) には全く見られない。こういう事例から考えても、少なくとも学術においては無視されていると言っていいだろう。

もちろん陰謀論や反知性主義が好きな凡俗はたくさんいるので、大学の教員は『ティール組織』で語られている宇宙の真理を過小評価して隠そうとしているなどと考えているのかもしれないし、この本が語る理想的な〈ぼくちゃんのかいしゃ〉ができないと、格好いい起業家になって AV 女優と結婚して麻布に家を買って GMO やアメーバの社長とヒルズで乱交パーティを開けないかもしれない、そんな社会は嫌だ・・・それもそれで一つの人生や仕事に対する考え方かもしれないが、哲学者として言わせてもらえば〈クズの価値観〉だ。価値観というものに公平や相対主義などありえない。少なくとも僕らの社会や国勢や状況において〈良い〉ものと〈悪い〉ものとの区別があるからこそ、理想や善悪をもって何事かを考えたり他人に要求したり自分でも自分の行動を律することができる。全てが中立で、どれもこれも〈良い〉なら、あなたがたはそこから一歩たりとも動けないし、他人にその場で銃で撃たれるまま死ぬだけの人生であろう。それはそれで主観的に〈幸せ〉だというなら勝手に死ねばよいが、他人を巻き込んでもらっては困る。

仕事が〈楽しくあるべきだ〉という発想がキチガイじみていると感じる理由は、非常にクリアで単純である。われわれ人類は昔からほぼ全て凡人であり、不老不死でもなければ 100m を1秒で走れるわけでもないし、地球の或る地点と月の或る地点との距離を小数点以下が数十桁の精度で計測できる技術を開発できているわけでもないのだ。つまり、仕事とは常にわれわれが何かを欠損しているが故に必要な行為であって、そこにはもともと苦悩や課題という事情や動機がある。僕らが会社で働くたいていの理由はお金が必要だからだ。複数の銀行口座に合計で1兆円を持っているなら、何らかの道楽といった理由でもない限り、どうしてネット・ベンチャーの部長なんかやっている必要があろうか。本来は何かをしたいのに、お金がないからこそ働くのである。したがって、親のスネをかじっていて生活の不安もない学生が「たくさんの人と出会いたい」などとふざけた理由で人事や営業職を志望するとか、そんな道楽を理由に仕事を始めるような人間ばかりが増えたからこそ、日本の公職や産業あるいは学術研究ですら1970年代頃から駄目になったのである。

僕は小学5年生の頃から高校2年生になるまで考古学を学んでいたことがあり、しかもたいていの「考古学ファン」といった暇な老人とは違って、settlement archaeology という当時の先端的なアプローチを学んでいたので、要するに当時の貴族や豪族ではなく平凡な定住生活を送っていた人々の暮らしを思い描くことを目的に勉強していた。そういう経緯があるので、古代、いや江戸時代でもいいが、一般民衆の暮らしを思い描いてもらいたいと思う。いつ飢饉で家族が餓死するかも分からないような生活を続けている人が多い中にあって、仕事が楽しいなどという世迷い言を彼らに望ませて何になるのか。もちろん、その方が『ティール組織』などという天界の書物を著す者が下界を見下ろしている限りで言えば、〈良い〉と言えるのは確かだろう。では、その〈楽しい〉仕事とは何なのか。飢饉が襲ってこない農作業のことか、それともポイント・サービスを運営する会社で(僕らのようなレベルの技術者から言えば)下らないコードをせっせとパソコンでタイプすることか。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook