Scribble at 2023-05-25 10:29:13 Last modified: 2023-05-25 15:41:50

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The Rothbard Reader

リバタリアンの牙城の一つでもある、フォン・ミーゼス研究所が発行した The Rothbard Reader というマレー・ロスバードのエッセイ集が安かったので、いまアマゾンから到着したものを開いている。彼によると、「公共の利益」というのは、実のところそういうフレーズを使って利益誘導したり利益を管理している官僚の利益に他ならない。それよりも実質的な利益配分や適材適所を実現するには、自由市場に任せる方がいいのだというわけである。でも、われわれの社会において「自由市場」と呼ばれるものは国家が確立して維持したり保証している限りでの「自由」である他にない。したがって、「自由」が生得の性質ではなく権利として勝ち取ったり確立するものだという点では、僕らはリバタリアンと同じ意見である。しかし、もし彼の言う国家を無視した「自由」なんてものが言葉の意味を為しうるとしても、そこには皮肉にも「市場」とは言えない詐欺と略奪の世界しか残らないであろう。僕は、少なくともそんな「自由」は人の社会を向上させたり進展させるために役立つような、獲得したり確立すべきものだとは思えない。

ともあれ、池田信夫君やホリエモンやひろゆきといったリバタリアンっぽい文化芸人どもの書くものだけでリバタリアニズムを愚弄したり嘲笑しているわけではないという一つの証拠として、こういうものをたまに読んでいるわけだ。しかしそれでも、僕の結論はあいかわらず変わらない。やはりリバタリアンというのは、自分が成功を収めた条件である既存の習慣や制度を軽視して、それがなくても自分は成功していた筈だと思い込む夜郎自大であるか、あるいはそれがなければ若者のみなさんはもっと成功するであろうと何の根拠もなく梯子を外してしまう、実質的には参入障壁を逆に作ったり強化している反動思想家である。もちろん、敷かれた道路の上を走るのはたいてい窮屈なものだし退屈かもしれないが、君たちはどうやって道路もなしに荷物をニューヨークからロサンゼルスまで運ぶというのか。色々なリスクを回避しつつ多くの経路の道路を整備することが制度や学問つまりは「知恵」の役割なのであって、途中で砂嵐やギャングに遭遇するかもしれない荒野をデタラメに走らせることは人の知恵や文明(の蓄積ないし共有)の否定である。

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