Scribble at 2022-05-15 16:43:27 Last modified: 2022-05-16 14:45:14

言葉の用法について、二題の話を続ける筈だったのだが、一つ目を書いているあいだに二つ目を忘れてしまった。

僕が昔から特定の脈絡を除いて使うのを憚る言葉の一つに、「問題」がある。この言葉を使う脈絡は、試験で解くとか、あるいは演習書に掲載されていて練習するという状況で向かうものであり、それ以外の脈絡では使いたくない。特に、報道番組や雑誌などマスコミで使われる脈絡での用法は厳に慎んでいる。その文脈とは、敢えて皮肉な言い方をするなら、「何が問題なのか分からないときに『何々問題』と言っている」ということだ。つまり、或る話題の何が〈問題〉なのか分からないときに話題を何か重大な事として印象づけるためのイージーな placeholder として使われるということだろう。

結局、報道したり語っている人間の方が何について何が語られるべきなのか分かっていないからこそ、「中東問題」とか「公害問題」とか「差別問題」とか「税金問題」とか、とにかく何でもかんでも喋りたいテーマを「問題」という入れ物に突っ込んでおけば(あるいは placeholder とは違う描き方をするなら、「問題」という言葉をテーマとなる言葉へ〈噛り付かせる〉とか〈ぶら下げる〉と言ってもいいだろう)、それを目印にして三流学者やイカサマ評論家や不勉強な官僚とか政治家がハエのように集まってきたり、あるいはそこから蛆虫のように湧いてきてくれる。そうして、既に嗅覚が混乱しているか未熟な嗅覚しか学校で教えられていない読者や視聴者が正しく判断できないほど、異臭の漂う雑誌の販売部数なり番組の視聴率を一定の水準で確保してくれるのだ。そうした、日本の出版・マスコミ業界の陋習と言うべきもの、つまりは予定調和で飯を食う習性みたいなものが、まるで穏当で常識的で冷静で民主的で自由な発言、学問、そして生活であるかのような集団催眠を自分たち自身にかけ続けることとなる。つまるところ、こういう言葉遣いを平気で続けるということは、何が話の本質や当否であるかを知らないか関心がない視聴者、つまりトンボに向かって指先をグルグルと回す、つまりこれが報道です、ジャーナリズムです、言論の自由ですと煙に巻く仕草を、結局は無自覚に報道・出版する側である自分たち自身に向かっても同時に続けることなのである。「問題」という言葉の杜撰な用法というものは、かようにして杜撰な精神を示す徴表(マーカー)である。

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