Scribble at 2026-04-01 09:22:21 Last modified: 2026-04-01 10:42:02

流行語、とりわけマスコミや出版業界あるいは官僚などが率先して多用し繰り返す言葉には、一定の思惑や偏見があって、安易に同調したり「トレンド」(これが何か無条件に「良いこと」であるかのような印象操作をしているのもマスコミだ。だって、それで食ってる連中なんだもの)であるかのように喜んで使うのはどうかと思う。昨今、"MCDA (multimodal critical discourse analysis)" という用語が使われるようになっていて、従来のメディア・リテラシーやメディア論などのシンプルなアプローチと比べて重層的・多元的に偏見や錯覚を助長するしくみを解き明かす手法として提唱されている。たとえば、発端としては福祉なり善意で始められたことであっても、それを出版業界や広告代理店が美談や特定業者の宣伝に利用するなどということは昔からあって、広告に利用されたからといって発端となる活動まで「売名」だのと非難されてよいかどうかという話も、事の顛末を単純に結果だけで評価できず、また議論も複雑になるわけで、MCDA のようなアプローチが有効ではないかと考えられる。

ここ最近も、とにかくマスコミや意識高い系の X 小僧などが嬉しがって人前で使いたがる言葉として、「言語化」とか「見える化」という言葉があるのをご存じだろう。こうした、いかにも広告代理店のコピーライターが思いつきそうな表現を気楽に使い、まるで業界用語か学術用語を駆使している私って、なんてインテリ、とかいう自意識プレイすら漂わせる腐臭としか言いようがないものを他人に平気でばら撒いている人々というものは、せいぜい良くてもマスコミの良き購買層だし、悪く言えばマーケティング業界の社会的歯車であろう。

かような、僕には同調圧力や偏見の温床としか思えない「言語化」のような言葉遣いによって、ここ最近の関連する風潮でもある「シェアという善行あるいは正義」だとか、要するに他人とコミュニケーションすることが善であり、その技巧に長けた人々こそ社会や組織を牽引するメイン・プレイヤーだという錯覚が増幅される。そして、僕のように必要もなく他人と雑談すること自体が時間の無駄であり、場合によっては迷惑でありうる(相手も似たようなことを思いながら雑談に応じていれば、これこそ典型的な「アビリーンのパラドクス」だ)と思っているような人間は、要するに「コミュ障」という医学的ではなく社会的な指標での精神障害だと見做される。さらに最近では、逆に、そのような人々こそ文明の発展を促す真のプレイヤーであるなどと、発達障害や自閉症の人々を英雄視する馬鹿げた論調も出てきているが、いずれにしても妄言の類だ。

もちろん、このような風潮そのものが産業や文化などによる影響を被った結果として起きている「被害」であるとも言いうる。つまり、RPA や AI エージェントなどの普及によって、いやもっと前、おおよそ50年ほど前に家庭用のゲーム機器が登場して子供が外で友達と遊ばなくなってから半世紀にも及ぶ影響によってとも言えるが、他人とのやり取りそのものがどんどん不要になってきていることへの抵抗とも言いうるからだ。

おおよそ組織というものは個人で成し遂げるのが難しいタスクや事業を、営業、ファイナンス、デザインなどと分業することで遂行しやすくするために出来上がったり、あるいは分業しなくても単純に数が多ければ他の集団や個人を圧倒して退けたりできるという効用があった。もともと株式会社という制度も、個人では集められない資金を大勢の人々が少しずつ出資することで集められる仕組みとして出来上がったものだし、学校も多くの子供を一同に集めて(世界で一つだけの花なんていう、これはこれで有害な自己欺瞞のためではなく、国家を担う人員として)訓練するために整備された仕組みだ。

しかし、いまでは多くの事業やタスクにとって組織という仕組みは必ずしも有効とは言えない。逆に、組織では物事についての判断基準が必要もなく多面的となってしまい、また判断を色々な人に委ねる必要があって、単純にアクションを起こすまでの時間が多くかかってしまう。現在は生成 AI が多くの判断指標や材料を提供してくれるし、その処理性能も高くて速い。いまでは、多くの事業で(人手が必要な作業はともかく)経営やバック・オフィスの管掌であれば、ほぼ単独で遂行できてもおかしくないほどとなりつつある。

つまり、コミュニケーションがどうこう言う以前に、他人がそもそも必要ない。こういう状況になりつつある昨今では、確かに自分たちの仕事や立場や意見や存在に意味があるとか価値があると思いたいという欲求が、それこそ大半の凡人にとって切実に生じてくるのも無理はない。しかるに、コミュニケーションは重要だ、そのための「言語化」が必須のスキルだといわんばかりの話を色々なところで繰り返しては、その当事者である自分たちが「言語化」のスキルを高めることによってこそ社会は「良くなる」かのような、僕に言わせればマッチ=ポンプと言えるような風潮を生み出しているのだろうと考える。

しかし、その言語化によって生成 AI がトレーニングされているのかと言えば、そんなことはない。凡人がブログや SNS に書きなぐっている言葉など、生成 AI の開発を手掛けている企業にとってはノイズやゴミでしかなく、真に有効なデータは学術研究者や政治家や有能なアーティストなどの記録や発言だけだ。つまり、既に彼らは仕事として数多くの記述や説明や解説を公にしており、わざわざ「言語化」などというスローガンを掲げる必要もない人々なのだ。よって、皮肉なことに「言語化」などと称して凡人のテキストがどれほど膨れ上がろうとも、それは単にゴミの山がでかくなるだけの話でしかない。もちろん、彼らにものを売っているマーケティングの業界にとっては、そういうゴミこそがビッグ・データ解析の主戦場であろうし、ゴミをまき散らす豚にどのような草を食わせるのがよいかを決めるための材料でもあろう。しかし、豚が太ってさらに大量のウンコやゴミをまき散らそうと、そのことが社会の改善や向上や進展なのだと錯覚させる必要があろうか。権威主義者の僕には、とてもそうとは思えない。

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