Scribble at 2026-03-31 21:19:46 Last modified: 2026-04-01 10:30:37
ちょっと暇潰しに、『科学哲学』の第57巻第2号(2024)の pp.3-12 に掲載された、佐藤広大、太田紘史「マインド・アップローディングを選ぶことは合理的か -- 哲学的議論の動向 --」という論文を取り上げてみよう。もちろん PHILSCI.INFO の落書きをご覧の方には繰り返しとなるが、僕はマインド・アップローディングというアイデアは、分析哲学で議論されている multiple realizability という概念についての論点先取によってしか正当化できないものであると考えていて、更に multiple realizability という概念そのものも、何が "realizable" であるかという定義が殆ど存在しないか、更に何らかの論点先取によって組み上げられており、要するにこれら一連の議論は哲学っぽいすがたをしているだけのインチキである。
かような議論は、SF オタクやガキに受けがよいので、とりわけ日本の出版業界などではマーケティングでのニーズがあって通俗本で取り上げられるようだが、ウェブのマーケティングにもかかわっている科学哲学者という立場や経験や見識から言って、このようなデタラメを「科学哲学」の名をもつ雑誌で語ること自体がナンセンスだと言いたい。そこで、具体的にこういう与太話にプロパーとして時間を浪費している人々へ、不本意ながら(不本意ながら!)博士号も持っていないアマチュアの科学哲学者が論評を加えようというわけである。
手始めに冒頭の議論から取り上げておく。それは、いわゆる「パスカルの賭け」という、これまた歴史的に名高い詭弁だ。
これが詭弁であるのは明白であり、こんなものをいちいち哲学として論じること自体が馬鹿げている(そして、いまや意思決定理論などの脈絡でも論じる価値があるのかどうか疑わしいと思える)。なぜなら、これは最初から比較するものに不平等があるからだ。かたや、現実のわれわれの生活において、神を信じないことで被る不利益に着目する。たとえば教会への寄付金だとか、そのていどの些細な不利益を一方に置く。そして他方、神を信じることで受ける利益として、やれ天界で永遠の生を謳歌できるだのなんのという話が置かれる。これは、現実の不利益に対して恣意的にいくらでも上回るような利益を想像して比較するのだから、こんなものは最初から茶番でしかない。したがって、こんな議論は哲学どころか、いい歳をした大人がかかわるような話ですらない言えよう。
そして、ここから続く議論にも共通することだが、この論文では大して科学や医療の予測として確からしくもなければ、僕の嫌いな思考実験としても妥当とは思えないような状況を比較しあっているだけでしかない。想像と妄想とを比較しているようなものだ。これが果たして哲学と言えるのかどうか、僕にははなはだ疑わしいと言わざるをえないわけで、分析哲学の雑誌などがあれば(『現代思想』や『理想』とか?)勝手にやっておればよいが、『科学哲学』に、かような出来の悪い SF 論評みたいなものを持ち込む必要はない。
具体的にここから後に展開される議論を眺めてみても、たとえばトマス・ネイグルの "What is it like to be a bat?" という論文で有名になった主観的な独特の経験や感覚、あるいはクオリアなどに通じるアイデアを雑に持ち出して、倫理学とも分析哲学とも現象学とも実存主義とも素人認知科学ともつかない議論を展開しては、結局のところこの手の議論で最も重大な論点なり前提であるはずの、「死は恐れるべき最大の苦痛や恐怖や悪なのか」、あるいは「不老不死は人類が求めるべき最高かつ最終の善や目的なのか」といった話をスルーしつつ、あーでもない、こーでもないと論者自身の個人的な「ありえそう」だの「なさそう」だのという感想をぶつけ合ったり、まわりで素人将棋を眺める観客のようなお喋りをしているも同然の、およそ哲学とは言い難い論述を続けているだけである。まったく学部のレポート並みとしか言いようがなく、いまではこのていどの「論文」など生成 AI が数秒で書いてしまうだろう。