Scribble at 2024-09-16 08:40:19 Last modified: 2024-09-17 12:42:56
日頃から、NHK や新聞こそが日本語の乱れを作っていると言っているのだが(これはスタンダードな「保守」の人間としての発言と解してもらっていい)、このところ特に用法が酷いと感じるのは、高校生を「学生」と呼ぶようになったことだ。もちろん、人の身分を合理性や妥当性もなく分類したり決めることは差別の温床になる精神性が醸成されるリスクがあるため、軽率にそういう分類を「伝統」などと認めるべきではない。しかし、高校の課程とは違って大学の課程は学問の基礎を習得することにあり、たとえば数学にしても、単なる計算や数理的な思考の実務能力をつけるというだけではなく、抽象的な体系の理解や新しい定理の証明などにつながる学術的な能力の修習が求められる。したがって、大学の学部課程や高等専門学校の高等教育からは「学生」という呼称を明治時代から使うわけである。これは、やはり高校までの中等教育で使われてきた「生徒」と意味が違っているので、単に「学校で学んでいる人」というだけで生徒だの学生だのと雑な言葉遣いをしているようでは、言論に携わっているとは言えまい。
他方で、これも最近の傾向として学生や生徒だけではなく小学校の児童も含めて、男女の区別なく「~さん」と呼ぶようになったのは、これは改善の一つだと思うので報道・マスコミを支持したい。彼らにしてみれば LGBTQ+ の活動家や差別系社会学者に糾弾されたり X で小言を書かれるのを恐れているだけだろうとは思うが、動機や事情がなんであろうと正しいことに変わりはない。そして、こういうことに眉をひそめるのが「保守」の人間だという偏見もやめてもらいたい。こういう場合、僕は保守とは言っても「人類史スケールの保守」として評価しているので、人類史スケールでは、意味もなく性別を特定するような「~くん」だの「~ちゃん」だのという呼称は不合理である。では、どうして児童や生徒の呼称という話題については、旧来の保守を人類史スケールの哲学的な保守思想がオーバーライドしてもいいのか(システム開発の脈絡だと旧来の保守が「親クラスのメソッド」の扱いになってしまう「オーバーライド」という比喩は的確ではないのだが、要するに旧来の概念を上書きしているという意味で理解されるといい)。
ともあれ、全ての保守的な議論や概念を上書きしているわけではないとすれば、上書きするべきものがなんであるかと、どうやって決めているのか。それは、「学生」と「生徒」の区別は妥当だと思うが、「~くん」と「~ちゃん」の区別は妥当ではないと思うからだ。前者の区別は学問を学ぶことと単なる勉強との違いとして区別する必要があるし有益だと思うが、後者の区別は必要もなければ(本人らにとっても教員にとっても)有益でもないはずだ。心理状態としては「女性の自覚がある男子生徒」が教員や友達から「~くん」と呼ばれ続ける事態を避けるためには、呼称の区別をなくすことが有益でもあろう。それに対して、「生徒」と呼ばれることで侮辱されたと感じる高校生だっているかもしれないが、高校の教育課程は学問ではないのだから、それは仕方のないことでもある。