Scribble at 2020-07-09 11:22:11 Last modified: 2020-07-09 11:30:48

僕は昔から、それこそ中学生の頃からだったと思うが、「人は自分に欠けていることを尊び強調するものだ」と思っている。イギリス人が騎士道を掲げるのは、彼らがもともと無礼で野蛮極まりない征服民族だったからだ。民主制は、民主的でない様々な圧制や不平等が蔓延っていたからこそ考案されて尊ばれてきたのだろう。そして、日本でも「和を以て云々」などと言うのは、それこそ1,000年以上も前から膨大な数の内戦なり叛乱を繰り返してきた事実が逆に証拠となっている。マッチョな言動を繰り返す人間は、実際のところ人殺しすらできないヘナチョコ野郎で、軍隊でも鬼軍曹と呼ばれる人物に限って軍人としては三流である(だからたいていの新兵は彼らが出す試練を乗り越えていける。無能が出す課題なんてハードルとしては大したことないのだ)。スパイやヒットマンはそういう人間の対極にある。

人々は、その国やその人物に欠けているものをこそ尊び、求める。そして、それが個人の目標なり願望であれば、平たく言い換えると人はみんな或る種のコンプレックスをもつと言える。これを単なる理想と未熟な現実との格差として抑うつの理由にするかどうかは、当人の考え方次第であろう。ただし、そういう格差を積極的に無視するという解決策もありうるわけで、単純に格差へ向き合って何か答えを出すことが《素晴らしい》かどうかは自明とは言えない。

そして、もちろん僕自身にも同じことは言える。僕が哲学や論理学を学ぶのは、自分がそうした能力に欠けていると思ったからだ。これは弁護士をやっている友人の結婚式でスピーチしたときも話したのだが、僕は高校生の頃までは、直感的に鋭いことは言うが、論理的な展開や説得の能力に欠けている人間だと周りから指摘されてきた。それを補うために哲学や論理学の本を読み始めて、そのうちいつしか、考古学者となるべく嘱望されていたのが科学哲学を専攻することになったのである。もちろん、いまだに能力を補うべく精進を重ねているようなところもあるが、たぶんこういうことは死ぬまで続くのだろう。(とは言え、その原因が認知能力の欠陥なのかどうかは知らない。努力で改善できる100のステップを惰性で40しか達成できていなければ、それは当人に知的能力の欠陥があろうとなかろうと非難すべきことではあろう。もっとも、その怠惰こそが何らかの生理的な欠陥によるものだと言われればどうしようもないが。)

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