Scribble at 2022-12-10 01:15:01 Last modified: 2022-12-10 01:23:07

ここ10年ほどの出版傾向を眺めていると、僕が大学で研究テーマにしていた "probabilistic causation" の論文や研究書は、著しい停滞を示していると思う。なるほど、「因果関係」という言葉を使った著作物は、統計学(因子分析)、ビジネス(意思決定論)、それから数々の通俗的なポピュラー・サイエンスの本が出ているし、それどころか哲学の本すら出ている。けれど、こと日本においては大半が翻訳であり、しかも書籍としての著作物が市場に出るという動向は研究の動向に対して遅延指標にすぎないため、本がたくさん出てきたからといって、その時に研究も盛んであるとは限らない。

僕が科学哲学の元学生として内外の動向を見てきた限りでは、或るテーマが注目されて数多くの研究者が取り上げ始めると、雑誌やカンファレンスで最初に公の成果として出てくるのは(論文が作成されて accept されて publish されるまでの経過から言って)早くても2年後くらいからである。博士課程の院生であれば、最初に口頭で簡単な発表が各地の大学や institute で始まった頃に研究成果へアクセスできるため、アメリカ国内でも長距離を移動して発表に参加するような人もいる。最近だとオンラインで発表することもあるから、そのあたりのコストは軽減されているだろう。ただ、そういう小さな発表会が開かれるという情報そのものは "Liverpool List" と呼ばれるメーリング・リストに主催者が告知することもあるが、されないこともある。よって、自分の関心にかかわりがあるテーマで発表する人がいるかどうかは、そもそも発表する人物と普段から連絡できる間柄になっておく必要がある。結局、多くの学生が留学するのは、そういう人間関係を作るという理由もあろう。なにせ、たいていの研究テーマは日本よりもアメリカの方が、同じか近いテーマで研究している人が圧倒的に多い。そして、そういう理由で他の国からも似たような理由で人や情報が集まるのだから、是非を論じる以前に、英語を習得することは学術研究にとってメール・クライアントやブラウザを使うようなことと同じである。良い悪いはいくらでも議論できるが、その前にとりあえず使えということでしかない。

それから同じテーマについて議論する人が増えてゆく。最初は、自分の研究しているテーマにどういう関連があるのか、多くの人は分からないからという理由もあるし、関連がなくても面白いテーマだと思い至るにも時間がかかるからである。そういう判断や感受性は、しょせん機械による計算では限界があろう。どれほど AI よりも情報の処理が遅くて少なかろうと、量やスピードそのものはテーマが興味深いか関連がありそうかという判断の根拠にはならないからである(「関係がありそうだ」という理解や期待は、形態素分析で抽出した語句どうしの意味論的な距離の近さといったガラクタ AI の理屈では、全くもって幼稚な結果にしかならない)。

そうして多くの研究者が、オンラインだろうと研究グループの会合だろうとディスカッションなどへ参加してゆくうちに学術誌の特集が企画されて、担当の guest editor が目ぼしい人物へ投稿を依頼し、論文がレビューされて出版される。他人が関わる話なので、いかに優秀な guest editor であろうとまとめるまでに1年はかかるだろう。こういうことが何度か続いて、ようやくアンソロジーとか handbook とか guidebook とか companion とかが出て、それでも更に特殊な議論とか体系的な議論として展開した著作を問う価値があると出版側にも認められると、そこでようやく単著の研究書が出る。統計も因果関係と同じく通俗本が続々と出ているけれど、そういう経緯があって初めて大塚淳氏の Thinking About Statistics とかが Routledge から出たりするのだ。

でも、そういう段階までやってくると、或る意味では議論が煮詰まってしまった証拠とも言える。特殊なテーマなのに専門の入門書みたいなものまで出版されるようになり、はっきり言えば大学の演習などで扱うテンプレができてしまい、敢えて言わせてもらうが統計学の哲学も因果関係の哲学も、哲学者としてどう見ても二流や三流としか思えない、情報集めや情報処理に長けているだけの人物が次から次へと、奇妙なアプローチの説明などを盛り込んだ、哲学的にはどうでもいい本を乱造し始める。ちなみに、僕は大塚氏の著作を日本語で眺めた限りでは(オンラインでだけ有名な哲学嫌いの数学者に Twitter で難癖をつけられたようだが)、そういう乱造されたガラクタの一部だとは思っていない。でも、残念ながら統計・確率の哲学や、因果関係の哲学という分野は、そういうガラクタが積み上げられつつあると思う。

とりわけ因果関係も確率や統計の哲学も、それらのステータスなり概念としての定式化なりにおいて、もう何年も議論の大きな展開がない。因果関係についての実在論と反実在論という論点についても、正直なところ Michael Tooley の実在論からどれほど理屈として納得できる内容の進展があったのか、これでも一通り学術誌のフォロー・アップはしているが、僕には見通せていない。ただ単に DAG や統計学や確率論の理屈を使った表面的な分析の御膳立てはディテールばかりの議論がうず高く積み上げられるけれど、それがいったい哲学としてどうなのかということは、ジュディア・パールだろうと誰だろうとぜんぜん明快な議論がないという印象がある。よって、最新の道具立てで広範なテーマについて扱ったという点では、僕もパールの業績を評価できるのだが、彼の著作は或る哲学的な意見なり立場の実装と言うべきものであって、それ以上の価値はないと思う。

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