Scribble at 2025-06-01 16:15:54 Last modified: 2025-06-02 15:12:44
PHILSCI.INFO では、哲学のプロパーも相手にものを書いているため、あまりにも手垢がついた概念や議論を取り上げることは少ない。そういう用語なり論争にかかわる背景知識は、恐らく読み手であるプロパーの方がたくさん知っているし、また専門職なのだから個々の概念や論点について考えている量なり時間も、僕なんかよりも遥かに多いはずだからだ。まさしく釈迦に説法といったところで、敢えてあちらでよく知られた議論やテーマを話題にすることはない。
ただ、プロパーの中にもいるし、ましては通俗的な物書きとして哲学や思想にかかわる本を書いている連中の中には、やはり既存の概念や議論や論争について、それらを哲学の話題として取り上げるのが当然であるかのように思い込んでいる者も多い。ましてや、それらを解説して飯を食っているような連中なのであるから、仮に自分では語るべきことでもないと思っていても、商売としては語らざるをえないという事情もあろう。
たとえば、意識や心の哲学という分野には「ハード・プロブレム」と呼ばれる話題がある。正直、僕はこの分野が既存の分類で言う「科学哲学」の話題なのか、それとも「分析哲学」の話題なのか分からないのだが、もちろんそんなことは哲学的にどうでもよい話であろう。ともあれ、雑に「英米系」とか「分析系」と呼ばれるスタイルの哲学に関心をもつ人であれば、学部の哲学科を出ているていどの訓練を受けていれば誰でも知っている話題だ。
簡単に言うと、ウィキペディアの解説が典型だと思うが、「物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのか」という問題のことである。そして僕は昔から、これは擬似問題だと言ってきた。理由は単純明快だ。脳の反応「から」主観的な意識体験が「生じる」という因果関係などないからである。つまり、脳の反応が主観的な意識体験「なのである」からして、それらは同一のことがらを言い換えているにすぎず、それらのあいだに因果関係などないのだ。よく、こういう意見は「心脳同一説」などと特殊な立場であるかのように語られたり分類されたりするのだが、こんなことは常識であり、現代の科学を前提にするなら標準的な見解であろう。なお、僕は自意識というのは脳の特定の部位の反応というよりも、複数の部位で起きる反応の side-effect を集約している状況が意識なのだと思っている。これは意識を研究している科学者にも同じ仮説を立てている人がいる。そして、同じような議論は記憶についても成立していて、たとえば「おばあさん細胞やおばあさんパターンなどというものはない」という、表象主義や機能主義への批判に現れている。したがって、意識に実体がないという意味では「意識はない」と言えるが、だからといって意識と呼べる状況や状態が成立していないというわけではない。永井均さんが言っている「意識は実在しない」というのは、おそらくそういう意味なのであろう。
したがって、意識のハード・プロブレムはキャッチーな話題として多くの通俗的な入門書で紹介されるのだが、僕はこれを研究しようとはぜんぜん思っていない。ありもしない「脳のはたらきと主観的な意識体験との因果関係」など研究したり想像するのは、哲学的に言って時間の無駄だからである。