Scribble at 2025-06-01 22:34:19 Last modified: unmodified
引き続き、心の哲学はおもんないという話をするが、その中でも最たる話題が、「クオリア」だ。僕はこれも、ハード・プロブラムに負けず劣らずのインチキな疑似問題だと思っている。その理由は、ハード・プログラムと同様に明快だ。つまり、当人しか体験できない独特の主観的な感覚がクオリアであり、それを正確に表現することは出来ない(よって他人に言葉では伝達できないので、同一性などの基準を客観的に議論できない)などと言われたりするのだが、そんなのはクオリアに限った話ではなく、およそ言語とは何についてもそういう限界があるからだ。つまり、クオリア論者というのは、何かクオリアだけが特別でユニークな特性を持っているかのように大宣伝を展開するのだけれど、それは僕に言わせれば悪質なマーケティングにすぎない。
こんなことは少し考えれば誰でも分かる。たとえば、あなたがお好きな、主観的な感覚でない物事を何でもいいから選んでみてもらいたい。それがどういう物事であるか、どういう意味なのかを、あなたがまさしく理解しているとおりに必要十分なだけの言語表現で叙述してみてほしい。恐らく、そんなことは絶対にできない。まず、どう表現すればあなたの理解している意味を必要十分に表現できるのか、その条件がわからないだろう。仮にその条件があなた自身の主観に依存しているとして、ではあなたの主観に依存しているその条件がなんであるのかを、他人にどう正確に表現できるというのか。これが無限後退になることは明らかである。要するに、言語で個々の個別的な事物について必要十分な叙述など最初からできないか、あるいは主観的に(クオリアとして)自分で納得できるように理解できるという無限後退でしか説明できないような態度に陥るかのどちらかなのだ。
よって、あなたのその痛みとか、あなたが見ているその赤色とか、そんなお誂え向きなシーンだけを取り上げて主観的な独特の感覚だとかクオリアだとか騒ぎ立ててみても、哲学的には無意味なのだ。言語を含めた僕らの認知能力というスケールで考えるなら、あらゆる事柄が(無限後退を避けるなら)「クオリア的」である他はないのである。こんな調子で、心の哲学という分野は epiphenomenalism だろうと functionalism だろうと supervenience だろうと、とにかく哲学的に言ってつまらない議論ばかりでウンザリさせられる。