Scribble at 2023-07-23 11:29:30 Last modified: 2023-07-23 12:16:47

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本稿のいちばん最後の段落を Microsoft Image Creator にそのまま日本語で入力して生成した画像。

今年の夏休みの課題として Python の復習をやろうという話を書いたことがある。実際に、いくつかの本は読み進めながらノートをとっている。そして、Python 3 が出たばかりの頃に書かれた本が多くて、そろそろ最新の Python については力不足の感があるため、或る程度は内容をノートに反映させられたら、古本屋に売却する予定だ。そうでなくとも毎月のように本を買っていて、自宅が本の収納ボックスで埋め尽くされそうな状況になりつつある。これは、本意ではない。単なる自己イメージや妄想にすぎないのは分かっているが、やはり哲学者たるもの、本など持たなくても広く深い見識と的確な判断力をもって生きたいものである(もちろん、これは古来から言われているとおり「~死にたいものである」というスタンスを含むわけだが)。

話が大きくなりすぎたが、ともかく Python の本をいくつか読んでいるので、いわゆる比較レビューのページも作る予定でいる。ただし、僕が所持している本は古いので、それらを比較して「手に取って読もう」と勧めるためにレビューのページを公開するわけではない。そうではなく、僕自身のレビューの基準とか評価そのものを参考にしてもらうために公開するわけである。同じ基準を使えるなら、みなさんがいま出版され発売されている最新のテキストを選ぶときの参考になる筈だ(本来、哲学の古典もこういう「使い方」が効果的だからこそ解釈を研究するものなのだが、趣旨を理解せずに単なる良い読書感想文の書き方とか、ヘーゲルやヴィトゲンシュタインの心境を理解して「フュージョン」、つまり彼ら自身に転生したいかのような態度へ埋没してしまう連中がいて、僕はそういう人々を PHILSCI.INFO では「無能」と言っている)。

ということで、いくつかの基準をご紹介しておく。

第一に、何か他の目的のために Python を解説するというアプローチの本は取り上げない。どういうことかというと、僕はいま Introduction to Computation and Programming Using Python も読んでいるのだが、こういうのは取り上げないということだ。この本も、冒頭の8章あたりまでを使って Python の解説をしているわけだが、残りはデータ構造やアルゴリズムや計算論の解説をしている。つまり応用の話が半分を占めているのであって、こういう具体的な用途があって、その用途に応じた解説が含まれているような本は、どれほど Python の解説として単独に取り出して優れていても、評価の対象にはしない。

第二に、これはどういう分野の入門書や教科書にも言えることだと思うが、これ一冊が最善だという本は存在しないという仮説を僕も支持する。読み手には色々な目的や予備知識のあるなしや読解力の違いがあるため、どれだけ詳しく丁寧に書いても予備知識の足りない読者は必ずいる。たとえばプログラミングの本を読むという自意識や格好だけで、凡庸な小学生が Python の本を手にしても、そこに出てくる金融業界や科学研究の事例など理解不能だろう。掛け算すら教わっていない子供、つまり3歳でグレブナー基底を理解できるレベルではない凡庸な子供は、プログラミングなんて学ぶ暇があったら外で走り回って遊べと言いたいね。実は身体を動かす経験を積むということは脳の活性化を自分でコントロールする訓練にもなる。スポーツをやっている人に勉強もできる人がいるのは、それが理由だ。それに、書く側にも人にものを教えた経験が非常に少ないくせに教科書を書こうなんてバカなことを考える大学教員とかジャーナリストとかがたくさんいて、はっきり言って能力不足のくせに社会的なポジションだけで有名な出版社から本を出しているような連中も数多くいる。なので、書き手が無能であるがゆえのミスマッチも起きる。

第三に、僕が聞いたこともない出版社、要するに個人の自費出版は無視する。そもそも、そういう本を権威主義者である僕が買うわけはないということはご承知だろうと思うが、それでも興味があればいろいろな手段で読もうと思えば読めるわけである。著者自身がオープン・アクセスで公開している場合もあるし、もちろん違法なやりかたで PDF や ePub 形式の電子書籍を手に入れるという手段もある。だが、そんなことをしてまで「どれが良さそうな本なのか」を調べる責任など、プロの開発者であるわれわれにはないし、Python に関連する学者にすらないだろう。つまり、そうした個人の自費出版を無視しても非難されるような「客観性」とか「公平さ」なんて、実は誰も求めていないし、理論的に仮定できるとしても、それに従って世界中の(それこそヒンズー語やスペイン語や日本語なんていう言語で書かれた Python のテキストまでかき集めて)調べなくてはいけないなどという義務が、いったいどの分野の学者やわれわれプロの開発者にあるというのか。そんなもん、ありはしないし、なくてもいいというのが僕の言う「権威主義」である。もちろん、僕の権威主義は古臭くて観念的な(つまり「悪い」権威主義の)、つまりは何か一つの基準とか特定の人物を権威の源泉や正統な由来などとして不問にするような愚かな態度ではない。何が権威になるかは、基準も、それから権威を付与する相手や事物も概念も不変ではない。

したがって、在野とかアマチュアに有能な人物がいることを否定はしないし(だって、ここに実例がいるわけだし)、Packt や O'Reilly や Cambridge University Press から本を出版している人物だけが見識をもっているわけでもないのは分かっている。よって、自費出版の電子書籍が本質的にデタラメなゴミだと決めつけたいわけではない。確かに、僕は自費出版の電子書籍は 99.999% がゴミだと思ってはいるけれど、その中のどれが例外と言いうる素晴らしい著作であるかは、やはり著者自らが立証する他にないのである。現在なら、ソーシャル・ブックマークのサイトに自著の解説を(あるいは内容全体をオープンにして)投稿して読んでもらうとか、収入が目的でなければ方法はいくらでもあろう。

なるほど、これは時間も金銭的にも余裕のある人たちにしかできないことだが、僕はここで Python の解説書や入門書を誰が書くべきかという話題について、貧しい人たちにも書く権利があるとか、あるいは counterfactuals を導入して「エチオピアの子供が Python の教科書を書いていたら」などと議論したいとは思わない。そんなことは、暇な分析哲学者にでもやらせて、日系BPか角川文庫あたりから愚劣なエッセイでも出版させておけばよかろう。われわれ科学哲学者の知ったことではない。

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