Scribble at 2020-12-15 22:39:02 Last modified: 2020-12-15 22:39:49

呉智英氏の著作は、僕が『やちまた』を知るきっかけになった『読書家の新技術』という文庫本の他にも、マンガについての著作とか論語についての著作、あるいは時評なども読んだことがあり、興味深い議論が多々ある。ただし、首をかしげるような主張も幾つかあるし、最近は書店でも彼の著作を見かけなくなったという事情もあって、彼の議論を目にする機会は殆どない。

「首をかしげるような主張」の例を一つ挙げてみよう。彼が幾つかの著作で何度か書いているため、信奉者には有名な論点だろう。それは、「須く(すべからく)」という表現を「全て」という表現の高級な言い回しであるかのように誤解している新聞の論説委員や学者がいるという話だ。これはこれで正しい指摘だとは思うのだが、呉氏は勢い余って、「須く」は「べし」と対になっているとまで言ってしまうことがあるようだ。しかし「べし」と対になるのは古文、しかも受験の古文という範囲の話であり、日本語としての訓読でどう読むかという話にすぎず、常にそうなるわけでもなければ、そうならなくてはいけないというわけでもない。そもそも元の文章に「べし」という言葉が入っていないからこそ、こういう問題が生じるのだから、元の文章はたいてい中国の古典であろう。ならば、中国の古代の文章として「須」という文字の機能や意味を正しく取ればよいのであって、それが「べし」という日本語で表現されなくてはいけないという必然性がないなら、そのような言葉の置き換えは単なる形式主義でしかなく、古典の内容を適切に解していないと言わざるをえない。

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