Scribble at 2025-10-10 17:42:18 Last modified: unmodified
国語辞典を使っていて、自分の言葉の用法について考えさせられることもある。もとより、僕は国語の授業で習ったというていどの理由で、特定の言葉を使うとか使わないとかを決めているわけではないし、いくら公文書の表記や用字として決まっていようと、そういうものに自分の文体や文字の使用方法を合わせようとも思っていない(とは言え、軽々しく「個性」などと言って、それら公のルールを軽視したり無視するのも馬鹿げているというていどの分別はあるつもりだ)。
でも、どれほど問題がないと言われても僕は使いたくない語句というものがあって、たとえば「手落ち」という言葉がその一つだ。「片手落ち」が障害者差別に通じる表現として忌避されているのは有名だが、「手落ち」については大半の国語辞典で何の問題もない言葉であるかのように収録され語釈が並べられている。でも、僕はそういう方針には従いたくないので、自分の書いている文章では(こういう事例として紹介する場合を除けば)使わない。どれほど「差別の意図はない」と解説していようと、差別の意図がなければ、そもそも「手」だの「片手」だのという比喩は全く使う必要が無い筈であって、人の片腕がないという姿と何の関係もなく使われるようになったり使われているとは思えない表現だからだ。要するに、大半の国語辞典は自己欺瞞に陥っており、本当は差別と関わっているも同然なのに、「意図は違う」などと自分に嘘をついているとしか思えないのである。
多くのヘイト・スピーチや差別発言において、最も卑怯な言い訳や自己正当化は、「そういうつもりはなかった」とか「本来はそういう意図ではなかった」などと言うことだ。しかし、そういう意図がなければ選択しないはずの言葉を使っている時点で、それは差別であるかどうかだけの問題ではなく、無頓着という罪なのだというのが、保守思想家であり哲学者としての僕の意見だ。ましてやそんな言葉の運用を「伝統」だのと口走るような人間に、この国の伝統を語る資格などない。われわれが保守すべき伝統は、「差別の伝統」でもなければ「無知無頓着の伝統」でもないのである。