Scribble at 2025-10-10 09:48:16 Last modified: 2025-10-10 10:07:33
どうして同じ種類の辞書を何冊か持っていたらいいのかという話は、単なる蔵書家の趣味嗜好でもなければスノッブの妄想でもなく、限定的ではあるが現実の利点がある。
一例を紹介すると、官公庁や公共機関、あるいは企業へ勤めるようになると、学生までは見聞きしなかった言葉がたくさん使われているのを知るだろう。それらは、要するに学生あるいはアルバイトのような立場では関わりのない脈絡の言葉なので、組織の中で正式にメンバーとして働くようにならないと接しない言葉と言ってよい。その一つが、「管掌(かんしょう)」である。
この言葉は、たとえば『角川 必携国語辞典』には収録されていない。なので、意味がわからなくても『角川 必携国語辞典』しか持っていなければ調べようがない。しかし、少なくとも『岩波国語辞典』や『明鏡国語辞典』には収録されているので、「自分が責任をもつ範囲の仕事として取り扱うこと」だと分かる(実際の語義はもっと簡潔に叙述されているが)。つまり、一定の仕事を自分が担当することという意味なので、違いを読み取るのは難しい場合もあろうが、かなり誤用されている言葉でもある。たとえば、「それは弊部の管掌だ」などと言ったりするし、僕もそういう言い方をすることがあるけれど、自分が責任をもつ「範囲」という意味ではないから、このような表現は誤解・誤用されている(たとえば「管轄」と混同されてしまっている)可能性がある。
といったように、複数の辞書を使うとカバーできる範囲が広がるという利点がある。もちろん、収録されている大半の語句は重複しているので、辞書ごとに 1/3 や 1/5 も収録語の内容が異なるなんてことはないわけだが、それでもこういう事例はあるのだ。
そして、仮に重複している語句についても、複数の辞書で語釈を比較すると、語義として理解してよい許容範囲がわかってくるという利点もある。特に抽象的な語句の場合は、限られた字数で言い表せる範囲は必要条件であるか(これは狭すぎる場合がある)、あるいは十分条件である(これは広すぎる場合がある)ことがあるため、いくつかの語釈を比較して必要条件だけでは足りないところを他の語釈から補ったり、あるいは十分条件だけでは曖昧だったり意味が広すぎるところを他の語釈との共通した点で狭めていったりして、正確な意味を掴み取れると期待できる。もちろんだが、そういう語釈、それから叙述に使われている言葉の意味も変わってゆく可能性があるから、完全な語釈とか、完全な語釈を書き表すのに必要十分な語句があるとか、それらに対応する固定した語義があるといった、言語学的に(そしてもちろん言語哲学としても)ありえない妄想をもつのは危険である。
さて、ここまで話を進めると、最近の若者からすれば当然のように「じゃあ Gemini やチャッピーに聞けば何でも分かるんじゃない?」ということになろう。これら生成 AI は学習用のデータとしてオンラインの辞書サイトのコンテンツを「おやつ」にして食っているだろうからだ。複数の辞書サイトをスクレイピングして食い散らかしているのだから、いちおう腹の中には多くの辞書サイトの語釈データが入っているだろう。よって、印刷物あるいは電子書籍でもいいが、ともかく辞書なんていう固定したコンテンツなど必要ないのであって、生成 AI のアカウントさえあればいいんじゃないか。
もちろん、僕はこういう意見を一概に否定するつもりはない。僕も、最近は物事を調べるのに検索なんて殆どしなくなり、Google One というサブスクの契約をしているので Gemini Pro に質問することが多くなった。そして、なんだかんだ言ってもたいていの質問には正しいと思える回答を返してくれる。おそらく、その確からしさは誰が編集して何処の出版社から出ている国語辞典にも引けをとらない精度だろうし、答えられる語句の収録数は(学習に使った辞書サイトのデータから和集合にしているのだから)既存の中型国語辞典を遥かに上回るであろう。
しかし、上に述べたような理由からすれば、それゆえに生成 AI がどれほど優秀でも「一つの辞書みたいなもの」であることに変わりはないのであって、やはり複数の「辞書みたいなもの」を持つことが望ましい。そして、生成 AI の場合は学習データとして使っているウェブのコンテンツは殆ど同じであるため、Gemini であろうとチャッピーであろうと Claude であろうと、もとにしているデータは同じであり、それをどう日本語の文章としてレスポンスするかというアルゴリズムの違いだけになる。そして、それはどの語句を語釈に採用するかというセマンティクスの問題でもあるため、要は複数の国語辞典をもつのと変わらないわけである。つまり、生成 AI を利用する場合でも、複数の生成 AI に質問したほうが良いと言える。