Scribble at 2026-06-02 07:30:08 Last modified: 2026-06-02 07:49:24

添付画像

The Dynamic Block Universe: Change Independent of Passage

このところ自然科学でも哲学でも「時間」の実在を否定する議論が流行しているらしく、日本でも(大半が通俗本だが)翻訳がいくつかある。日本のプロパーは、自然科学はもとより哲学のプロパーですら時間というテーマには尻込みどころか無関心な人が多いため、はっきり言えば殆ど業績が積みあがっていない。もっとも、通俗的な本を数えるなら成果はいくつかあろう。大森荘蔵氏や大森氏の学生だった中島義道氏をはじめとする人々の読み物はご存じの方も多いし、時間論の修士論文を単行本として出したというマイナーな「天才物語」で販促されながら、結局はそれ以降の業績が分からない山口大学の研究者とか。まぁどこの国でもそうだが、「新進気鋭」などとマス・メディアに宣伝された人物が後にノベール賞を受けたり歴史に残る思想家となった事例なんて一つもないわけだが。たとえば、数学者のテレンス・タオは実際に歴史に名前を残すと思うが、彼はいまでもマスコミに取り上げられるような人物ではないが、実際に新進気鋭であった頃から、いまでも最前線の研究者と言ってよい。

それから、ここでご紹介する論文が典型であるように、もともと形而上学の議論や思考を言語の混乱であると断罪する「言語分析哲学」として出発しながら、過去にも発端や経緯やアイデンティティとは関係なく形而上学をやっていた分析哲学者というのはいたわけで、ストローソンしかり、チザムしかりというわけであった。そして、いつごろからなのか、言語分析や論理分析を行うという意味での「分析哲学」は既に死滅あるいは雲散霧消しており、われわれがやっていたのは実は形而上学の議論も含めてよい「概念分析」だったのだと居直る人々が出てきた。もちろん、それはそれでよい。僕らのような哲学者から見れば、その手の自意識話やポジション設定なんてものの実態は、はっきり言えばマス・メディア向けのプレゼンだったり小文字の政治的なメッセージだったりと、哲学するために必須でもなければ重要なことでもないからだ。たとえば、ジャック・デリダが自分自身を「ポスト構造主義」の思想家であるかどうかなどと、小一時間でも考えたことがあると本気で思っている人がいるだろうか。小平の英雄や、柄谷ならぬ「岩波行人」などと笑われたような、何か文章を書きさえすれば自動的に出版されるのが当然といった物書きたちには、"What is it like to be a philosopher?" など、既に理解できまい。

しかしながら、そうは言っても時間が問うべきことの一つであることに変わりはない。その問い方の大半が、幼稚で、未熟で、日本の出版物を見ている限りは愚劣ですらあるというのは嘆かわしい限りではあるが、それはもちろん時間ということがらなりテーマに責めを負わせることではない。なので、「時間」という言葉を振り回す本の大半が読むに堪えないゴミだからといって、時間について考えることを避けたり否定したり過小評価することが愚かであるのは確かだ。ここでもまた、時間に関心がありながらもゴミに囲まれている僕らが採用できる最小限の方針は、やはり古典に学ぶことであろうと思う。いいこと言うだろ? なんだかんだ言っても出版社は一方でゴミを散らかしてはいるものの、他方で古典の出版もやっているのだから、にわかに「ゲロを吐きながら歩く『言葉の酔っ払い』」などと出版社を蔑んだり否定するわけにはいかないのだ。もしヒュームの Treatise が出版物となっておらず、イングランドの一部の大学に手書きの稀覯本として所蔵されているだけだったら、研究者の伝聞で存在は知っていても、どうやって自らアプローチできたであろうか。

あまり上でご紹介した論文と関係のないことを書いているが、もちろん当サイトの文章で主軸となるのは僕の落書きであって、他人の論文ではないのだから、こういう文章を書くきっかけとなったリソースとしてご紹介するにとどめる。"dynamic" という概念が「変化」と「時間の推移」とに分別できて、双方を混同するべきでないという議論なのだが、これらに認知的な相関関係(実在としての因果関係まではともかくとして)があるなら、簡単にはかかわりを否定できまいという予感はする。こういう場合に、supervenience が成立するかどうかという指標で検討してみるのは有効だと思う。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る