Scribble at 2026-06-02 11:02:24 Last modified: 2026-06-02 11:10:25
大学院の博士課程前期課程(いわゆる修士課程のこと)では、主に因果関係、しかも確率や統計の概念を使った定式化と解釈を研究テーマにしていた。いわゆる「ハードな科学哲学」というやつなのだが、それをベースにした因果関係の研究は、どちらかと言えば科学哲学というよりも形而上学に類するテーマであると考えられていて、それを科学哲学のテーマとして扱うこと自体が、いわば実在の関係ではなく認知的なスキームだと見做す認識論的なアプローチに最初から偏っているのではないかと、指導教官の竹尾先生からは警戒されていたように思う。なので、「君の研究は認識論に偏りすぎている。アリストテレス以来の伝統である哲学からすると、認識論的なアプローチは派生的なものであって、あまりそこに固執するのはどうかと思う」といった趣旨の批評とも小言とも言いかねるようなコメントをもらったこともあった。これはこれで、一つの見識であろう。確かに、(あくまでも竹尾先生が望まないハイデガー的な意味でだが)存在論というアプローチと比べて、認識論というものはしょせん「生物」の話をしているにすぎない。いまでこそ、サイボーグの認識論がどうの、ゾンビの認識論があーだといった与太話を繰り広げる(たいていは哲学としての業績がない)分析哲学者が世界中にいるけれど、それらが「認識の主体」であるかどうかを基準として展開されている以上は、どこまで行っても主観からは離れて議論できず、世界や宇宙の本質や究極の謎へ迫るには足りないであろう。
だが、それ以外にどうやって、そもそも世界に謎があり、それに迫る必要があると考えたり言えるのであろうか。存在ではなく、われわれは存在「論」をやるしかないのだ。こうして、存在論と認識論についての「循環」というものを、僕は肯定的に考えるようになったのである。循環になること自体が面白いからだ。いわば、論理的に説明や議論や問いが果てしなく続く確約を得たようなものである。おそらくは膨大ではあっても有限であろうと思われる宇宙や世界に、どうしてこういう概念や論理としての無限や永遠が語り得たり考え得るのか。これも宇宙や世界についての謎と同じくらい興味深い謎というものである。
さて、実はここでの本来の話題は、そういうことではなかった。
確率や統計の概念を使う因果関係の哲学を展開するというテーマも興味深いものなのだが、僕にはアメリカやイギリスの科学哲学には昔からどうも不透明なところがあると思っていて、何かすごく強い文化的な偏見とか前提によって突き動かされているように感じていた。それは、分析哲学や科学哲学について、特に現象学の人々から言われてきた「ビジネスライクな」スタンスであったり、あるいは倫理学の人々から「価値判断について無関心だ」と非難されてきたことと関係がある。最近になって、ようやく科学哲学や分析哲学のプロパーにも、こういう問題意識をもつ人が出てきていて、その発端となった二つのきっかけは、フェミニズム流の科学哲学(科学哲学における #metoo)と、いわゆる X-Phil(「実験哲学」という呼称は誤解を生じると思うので、「実証的な哲学」と言ったほうがいい)だ。このように、社会科学のアプローチや脈絡を科学哲学へストレートに持ち込む人々が現れたことにより、科学哲学の履歴について、ヘンペルやファイグルやカルナップら論理的経験主義者が迫害から逃れてきてうんぬんという、ユダヤ・ロビーに最適化された「お上品な科学哲学の正史」みたいなものへの違和感がアメリカの若手にも広がってきたのであろう。僕も、これは情報セキュリティの実務家として見出したことだが、情報セキュリティの "CIA triad"(機密性、完全性、可用性)の経緯について調べていたときに、チャーチマンのような研究者を調べていると、ランド研究所に在籍していた人々がアメリカで科学哲学が普及していった初期の段階で、科学技術行政なり大学教育行政に一定の影響を与えていたということを理解して、アメリカの科学哲学について言われる「カマトト」や「ノンポリ」という批評は、確かに謂われなきことではないのだろうという結論に至った。ただ、僕は単純にアメリカの科学哲学を「冷戦時代の公式哲学」だと非難したいわけではないし、そこまで簡単な話ではないと思う。それに、アメリカの分析哲学や科学哲学には、そういうことだけではなく、やはり冷戦という事情だけでは語れない特徴もあり、その一つが「科学哲学の教員には黒人がいない」ということだと思っていた。そして、これは日本など他の国でも同様の議論ができる。日本でも、大学の哲学教員に在日韓国・朝鮮人や在日中国・台湾人は中国思想や儒教という分野ですら非常に少ないわけである。
他にも、僕が昔からかなり強く疑っていることの一つが、いわゆる「科学革命」というお話である。実は、この落書きはもともと科学革命という筋書きについて僕は疑っているという話をしようとして書き始めたのだが、あまりにも前置きが長くなってしまった。これも話を展開していくと長い議論になると思うから、これはまた別の機会に取り上げよう。