Scribble at 2022-08-09 11:46:39 Last modified: 2022-08-09 12:46:33

これは前職からも含めて20年以上の話にもなるわけだけど、仕事で同僚や取引先と情報のやりとりをどうするかというテーマは、15年くらい前から始まった「シェア」だの「共有」だのという、一部の業界が扇動している馬鹿なキャンペーンのせいで、それに釣られた報道機関や学者までもが、まるでなにか会社の業績を上げる特効薬や世界を改善する切り札であるかのような錯覚を世界中の馬鹿にまき散らしている。

でも、そんなことは絶対にない。

技術が良いことだけに使われるなんてことは絶対にないからだ。いかなる技術も良い結果を生んだり悪い結果を生む。たいていの技術の実装や影響とは、その複雑な組み合わせであって、SNS で情報を共有すれば水路に落ちた犬が助かるといった、馬鹿同然の話だけで SNS を賛美するような子供が、そのまま大人になってしまってはいけない。警察官が水路に落ちた犬を救助するのは、そのまま犬が死んで腐敗すると下流の水質が劣化するし、周辺に悪臭が広がって余計に掃除の手間がかかったり、それこそ SNS で苦情が山ほどツイートされるからだ。彼らは行政官として対応しているのであって、別に犬や、「いのち」(電通や博報堂のコピーライターが大好きな、手書きの平仮名フォントでチラシに大書するような、あれ)が大切だからではない。

そろそろパソコンやスマートフォンなんて道具にすぎないと割り切ろう。誕生日にデパートで買ってもらった超合金やプラモデルの箱を自宅で開けたかのような高揚感を維持するためだけに繰り返される、スティーブ・ジョブズのような詐欺師のトリックに、いい歳をした文明人がいつまで騙され続けるのか。われわれの生活や世界を良くするのも悪くするのも、昔から言い古されたセリフでもあるが、それは僕ら自身であって、機械やプログラムやオンライン・サービスごとき道具ではない。本当のところ、そんなものあってもなくても実は関係ないのだ。iPhone がなかった弥生人は不幸だというのは、ヒトの心や生活についての強い意味で悪質な(広告代理店的とすら言っていい)錯覚である。

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