Scribble at 2022-08-09 11:14:28 Last modified: 2022-08-09 12:51:07

数理論理学、記号論理学、論理回路、プログラミングの理論、形式言語の理論、計算論と計算複雑性、グラフ理論、ブール代数などなど、コンピュータ・サイエンスの基礎と言える分野について、これまで色々と書いてきているが、もちろん素晴らしい教科書もたくさんある。林晋氏の『数理論理学』、戸田山和久氏の『論理学をつくる』、或る意味で手前みそだがレモンの『論理学初歩』、そして前原昭二氏の『数理論理学序説』など、僕が目を通して学んだ多くの著作は、どれも手に取る価値があるものだと思う。

逆に僕がこれまで語ってきた「クズみたいなもの」とか「犬のウンコ以下」といった本は、もちろんプロパーでもない僕らアマチュアは買ってなどいない。書店で眺めるか図書館で眺めるていどだから、丁寧に読んだうえで評価しているわけではないが、いっときは出版業界にもいたり同人誌を子供の頃から作ってきて、ものを書く訓練は大半の大学教員よりも長く、そして少なくとも大学院の博士課程まで進んだ科学哲学専攻の人間に、店頭や図書館で数ページを読まれただけで「ウンコ」と即断されるような本は、やはりクソなのだ。

もちろん、クズみたいな離散数学や論理学の本を積極的に「クズ」だと公言するだけではいけないのであって、アマチュアであっても alternative としての論説を公表するくらいの気概や責任感があっていいし、そういうことにプロパーもアマチュアも関係はない。要は、成果を出して業績となれば人類の叡智の進展にとって有益となりうるチャンスが生まれるのであり(たいていは無視されたり誤解されるわけだが)、そこに東大教授なのかネット・ベンチャーの部長なのかという違いがあると思い込むのは、ただの(悪い)アカデミズムや自意識にすぎない。自意識で学問をやる人間は、どれほど評価されている古典の著者であれ、結局のところ哲学的には無能である。

ちなみに、僕は頻繁に「自意識」という言葉を使う。それは、ここをご覧の方はご承知だろうが、しかし誤解してもらいたくないのは、自意識を動機にした研究とか思想とか生活信条を否定しているからといって、僕は我欲とか主観を否定してはいないということである。「自」という文字を使っているから誤解されるのかもしれないが、僕が「自意識」を否定するのは、それが他人からどう思われるかという評価の尺度しか頭になく、他人の尺度に合わせるという、逆に自分の価値観を無視したり軽視した態度だからだ。政府のなんとか委員になって熊本大学の学長になりたいとか、そういう動機で哲学や教育学の(しょせんは学問の発展に 1mm も貢献しない紙クズでも)論文を書いたっていいし、暇と退屈で小平の高速道路についてあれこれ運動してもいいだろう。日本の大半の哲学教員なんて、しょせんは人類史における塵芥ほどの意味もない劣悪な情報伝達装置か社会学的にていどの低いアクターにすぎないわけだが、自立した(少なくともそうあろうという)価値観のない自意識だけで駄本を量産したり、哲学イベントを開いて有頂天になっているような馬鹿に比べたらマシであろう。また、そういう我欲で哲学や学問をやるほうが「人間的」でもある。哲学の課題はヒトなどという些末な生物の種などいてもいなくても関係のない宇宙の真理というべきものだが、それを探求するのはほかならぬヒトである。それゆえ、哲学は動かしようもなく「人間的」であり、結局のところそれをやる動機は我欲でしかないと僕は思う。自意識で哲学や学問をやる連中というのは、そうでないかのようなフリをしている詐欺師にすぎない。

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