Scribble at 2021-12-01 13:59:58 Last modified: 2021-12-03 15:17:04

僕自身も、それから連れ合いもそうだし、そもそも誰でも一部の特性を共有しているとされているので、別に特段の治療とかカウンセリングを要するわけではないと思うのだが、いわゆる「発達障害」とか「自閉症スペクトラム」として語られる特徴をもっている。僕の場合は敢えて変わり者を演じているようなところもあるのだが、しかし意図せずに相手を怪訝な思いにさせているかもしれないし、〈哲学者ぶって〉原理原則を敢えて曲げない態度をとっているうちに、もう性根から相手と妥協しないような人間になっている可能性もある(それを「恐れもある」と書いていない点で、既に危ないのかもしれないが、まぁどうでもいい・・・と言ってるのも危ないんだろうか)。

しかし、これまで何冊か発達障害に関する本を読んでいて、職場で発達障害の人とうまくやりとりするためのヒントといった、かなり通俗的なビジネス関連のノウハウ本まで読んでいるのだけれど、はっきり言わせてもらえば殆ど役に立たない。この状況が「スペクトラム」と呼ばれているように、程度問題であるという常識は知っておいて損がないのは分かるし、それくらいは本を読まなくても知っていた。そして、何冊の本を読み重ねてみても、そこから〈先〉というか〈上〉というか、ぜんぜん知識や僕自身の見識として良くなったり洗練されたり正確になったりするところがない。どの本を通読してみても、著者が解説している「発達障害」は常にぼんやりとしているし、生理的・生物学的・医学的に明解な定義がない。おまけに、大半の本は発達障害やアスペルガーの人々の特異的な行動や発言のパターンを場当たり的にあれやこれやと紹介しているだけだ。日本の物書きが大好きな、「ルポ(タージュ)」に類する記録で社会的弱者についての〈生々しい実態〉とやらを活字にすれば正義感を満足させられるとでも思っているのだろう。愚劣な連中だ。そして、日本で生まれ育ったというだけの医者や福祉関係者も、社会科学的に未熟なままでは同じ愚行を繰り返し、役に立たない〈善意や熱意が印刷された紙くず〉を市場に撒き散らすことになる。

そして、それは恐らく当たり前のことなのだ。誰であれ多少は変わったところがあるというだけなら、単にいまこうなっている事実をそのまま描写しているにすぎず、何の新しい知識や情報も付け加わっていないからだ。「我々の身の回りには空気があり、そして地球の大気があります」と言っているようなものである。なので、もうこの手の本を読むのは止めようと思う。

何も得るところがない。

仮に僕が何らかの程度で発達障害だからといって、会社の部長として、あるいは(人並み外れた水準の)エンジニアとして、それとも(有能だと自分では思っている)哲学者として、いったい何に気をつけておけばいいというのか。他人の相手をするときに、何をすれば徳になるか、それとも損をしないのか。そんなもん、こちらの側だけで分かるわけがないだろう。なぜなら、相手だって(更に酷い)発達障害かもしれないからだ。そもそも、僕や連れ合いのように最初から他人あるいは自分について〈分からない〉という前提を持っている人間は、教えられなくも neurodiversity という原則をもっているのだから、別に他人から発達障害との向き合い方を教えてもらう必要などないのである。

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