Scribble at 2021-12-01 15:55:47 Last modified: 2021-12-02 20:22:28

ここ最近、Analysis という分析哲学系のジャーナルは、IF (impact factor) の値がかなり低下したんじゃなかろうか。同じくイギリスで発行されている Mind という哲学の学術誌に比べて、IF の値は 1.0 を切っている筈だ。とにかく他誌や書籍の参考文献に、この雑誌の論文が列挙されている事例を殆ど見かけなくなった。というか、かなり昔からでも、この雑誌に掲載される論文というのは、同じ Analysis の論文を引用して討論の舞台にしている事例があって、いわば自己増殖的な議論を展開する雑誌という印象が強い。そのせいで、分析哲学を揶揄する表現として「現代のスコラ哲学」などと言われる原因の一つを作ったというのが僕の見立てである。実際、概念よりも言葉の些末な特徴や事例を哲学的な話題として捏造してきたかのように言われる「日常言語学派」と呼ばれるスタイルの議論は、ほぼこの雑誌で展開されてきたと言っていい。

もちろん、戦前から続いてきた歴史ある雑誌であり、中には「古典的」と呼んで差し支えない価値のある論説もたくさんある。しかしながら、僕が思うにはオクスフォードの談話室で交わされる軽い冗談ていどの価値しかない3ページ足らずの殴り書きに等しい論説を、英米の大学教員が書いたというだけで哲学の議論であるかのように扱うのは、はっきり言って過大評価もいいところであり、集団催眠でしかない。そろそろ、10ページ以下で十分な哲学の議論を展開できるという、通俗的なイメージで語られる「理数系のジャーナル論文」の馬鹿げた真似事をするのはやめて(実は、理数系のジャーナルに掲載される論文が数ページだなどと言うのは、学術研究の実務を知らないアマチュアか修士ていどの経験しかない人の錯覚だ。実際に学術雑誌を1部でも手にとってから、そんな戯言を口にできるものならしてみろと言いたい)、必要なら紙面全てを使い切って論説を掲載するくらいの方針に転換した方がいいと思う。簡単に言えば、引用したり参考文献として列挙するほどの価値があるとは思われていないがゆえに、IF が低いのだとしか思えないのだ。そして、その主な原因は論説が短すぎることにあると思う。

ちなみに、『科学基礎論研究』という短い論説を掲載する方針の雑誌に間接的な皮肉を書いていると思う人がいるかもしれないが、それは間違いだ。つまり、皮肉ではなく、僕は Analysis という特定の雑誌だけの話をしているわけではない。しかるに、他の雑誌でも似たような方針で是々非々の分量を求めているのであれば、逆に是々非々で100ページの論文を掲載するのも道理だと言いたいだけである(The Philosophical Review だと、過去に長大な論文を掲載した実例があるはずだ ERKENNTNIS や Synthese でも50ページていどの長さの論説なら幾らでも掲載された事例がある)。

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