Scribble at 2023-06-08 10:10:21 Last modified: 2023-06-09 10:55:40

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約1ヵ月ほど前から、髭剃りの「姿勢」(精神的な意味でのそれではなく、身体の向きや構え方という意味での)について論説を書いているとご紹介した。実際、上記のような図を幾つか使っているし、まだ序盤の基本的な知識をご紹介しているだけなので、もっと図は増えていき、公開するまでには時間がかかると思う。なにせ、髭剃りの些末な経験談とか剃刀の蘊蓄については山ほど世界中で書かれているが、髭剃りの姿勢についてスポーツ医学や作業療法や biophysics といった複数の分野にまたがって知見を集めて議論するページとかサイトなんて、剃刀や替刃のメーカーにすら存在しないのだから、新しい話題を提供するためには色々な手間がかかる。

僕が専攻している科学哲学でも同様に、新しい話題に取り組む、つまりは未開の土地に足を踏み入れるにあたって、それこそ牧野富太郎のように植生や環境を壊さずに進んでゆくか、あるいは巨大なブルドーザで全てを薙ぎ倒して行くかで、後から同じ土地を訪れた人々の理解や印象も変わる。僕らが初心者にも古典の通読を薦めるのは、そもそもその土地(哲学)に足を踏み入れる必要を感じているのであれば、そこでどういう努力が必要なのかを心得るところから知るべきであって、ブルドーザで舗装された道を進む(つまり通俗本や「わかりやすい」本ばかり読む)だけでいきなり最深部に着いたところで、イージーに進んできた人には何もできまい。寧ろ学問を修めるとは、その最前線での苦労に本質があり、整えられて奇麗な図や表でまとめられた通俗本の解説なんてものを読み漁ったところで、あなた自身の為すべきことについて夥しい分量の通俗本から学べることなんて、些末な専門用語や、本当のところあなた自身にとって殆ど関係のない話題の他には、殆どないのである。未開の土地で最前線までたどり着いたあなた方が、更に先へ進もうとしても、あなたの代わりに道を舗装してくれる小川仁志だとか千葉雅也とか飲茶とか田中正人とか(『哲学用語』の著者らしいが、どこの教員なんだろう。業績もきいたことないし・・・ああ、デザイナーなのか。もちろんデザイナーがこういう本を書いてもいい。こうして科学哲学をやってるデザイナーやエンジニアもいるんだから。でも、デザイナーとしてもこんな人は聞いたことないな。どのみち広告代理店とかにいて伝手で本を書いてるような連中の一人だろう)、誰でもいいが、この手の連中があなたのために道を舗装してはくれないわけである。それとも、あなたのお気に入りの道が設えられるまで待つのかね? そのうち死んじゃうよ、人間なんて。

髭剃りの知識や素養についても、同じことが言える。これまでに十分な議論が蓄積されていないと思える話題に新しく取り組もうと思うのであれば、十分な議論がオンラインのリソースでは蓄積されていないということは検索してみて分かることなのだから、その話題に取り組むための準備や素養をオンラインのリソースだけで十分にまかなうことは難しい。それこそ、ChatGPT が検索で見つけられなかったことについては何も答えられないのと同じく、知らないことについて自分の経験や手前勝手な想像だけで語っても、それは新しい話題についての成果と言うよりも、新しい感想や小説を書いているのと変わらない。それはそれで技巧として読むに値する暇潰しの道具にはなるだろうが、他人の知識や素養を高める役に立つかどうかは疑わしいし、実際にそんなものをどれほど積み重ねても社会科学的なスケールで言って「ゼロ加算」でしかないというのが僕の持論だ。小説や漫画を読むことにも意味はあるが、それは他の手段や知識や経験や内省や活動で何かを積み上げる意欲とかきっかけを与えるものであって、小説を読んだり漫画を読むこと自体が何かの業績や経験の積み上げになるというのは、僕は出版業界のデタラメな宣伝だと思う。

さて、そういうわけで髭を剃るときの姿勢を幾つかの脈絡で議論する論説を書いている。ただ、まずは基本的な知識として身体にかかわる biophysics なり身体運動学の知見をご紹介しようとして物理の本を幾つか読んでいると、いまさらだが著者によって基本的な物理量についてすら扱いが違っていることが分かる。これはこれで、僕の物理学に関する知見を広めるという効用もあって面白いのだが、しかしこういう知見を使って何かを説明しようとすると、正確で適正な観点を維持するのが難しくなる。

たとえば、僕はいま書いている論説では力のモーメントとか回転モーメントと呼ばれる物理量、つまりは「トルク」と呼ばれる物理量について、通俗的な本だとか教科書の一部が採用している「右ネジ」あるいはネジのように具体的な物体を使った説明を排除している。しばしば、或る作用点に力が加わると、トルクの「向き」と称して、力のベクトルと回転軸とで形成される平面とは垂直な向きに何かが回転して進んでいく(つまりはネジが回転して進む)という喩え話を書く物理の教員が非常に多いのだが、これはかなり特殊な条件を追加で説明しない限りは間違いだと思う。なぜなら、そういう平面とは垂直な軸に働く力というだけなら、その向きには二通りあって、実際に "clockwise torque" vs. "counterclockwise torque" として正反対の向きにかかる二つの力をトルクとして説明する教科書もあるからだ。そして、かなりの割合の教科書では、そもそもトルクを説明するときにトルクの「向き」に何か実体としての意味があると説明してはいない。そして、これはトルクが計算上の、つまりはヴァーチャルな量でしかないという定義を正確に理解すれば当たり前のことなのである。僕らがドライバーで木に(ふつうは右ネジの)ネジ釘を付けようとするとき、時計回りに回転するような向きでドライバーに力を加えると、確かにネジは木に捩り込んで行くだろう。したがって、ネジ釘が進む向きをトルクの向きとして考えてもよい。そうすることで、逆向きにドライバーを回して逆の向きに力を加えたら、今度はトルクの向きが逆になるのだから、ネジ釘が木から外れてゆくという経験に合致する。でも、それはあくまでも右ネジという物体の構造がそうなっているからなのであって、トルクという物理量がもつ論理的に必然の(つまり論理的に逆の向きでトルクを定義すると矛盾が生じるような)性質なのではない。トルクを、これまでとは逆を向いたベクトルとして定義しても、実は何の問題も矛盾も生じないのである(これまでの定義で書かれた書物との字面における矛盾は生じるかもしれないが)。そもそも、或る向きに力が加わると無条件に垂直方向にも力が「発生する」なんて物理的にありえないだろう。

大学の初年次に扱われる初等的な話題ですら、このように物理学の教科書や通俗書を手掛けている人々の理解とか説明というのは、われわれ科学哲学の研究者とか数学の研究者に言わせれば杜撰である。よって、こういうことすら丁寧に整理して扱わないといけないという、科学哲学者としての職業病みたいなところもあって、なかなか作業がはかどらないわけである。もっとも、その責任は僕だけにあるとは思えないのだが。とりわけ、高校生の多くが物理の授業で混乱してしまい、不得意になったり嫌いになる原因の一つは、僕がこれまで数学について批評してきた原因と同じで、要するに教員や教科書の説明が杜撰だからなのだ。力のモーメントのような物理量は、本当の力ではなくヴァーチャルな量であり、ベクトルとして扱えば便利なだけの道具にすぎないと、はっきり説明しないからこそ、まるで本当の力が加わるような錯覚に陥って混乱するのだ。上の図でも、自然に生じているのは地球の中心に向かう重力だけであり、それに対して身体の筋力や骨の組織の硬さや皮膚の強さなどが働いて、姿勢を保つように均衡がとれているのだ。ここで身体に左から右へ向かって働かなくてはいけない力など何一つとしてないのである。こんなことは少し考えたら誰でも分かる。もしそんな力が働くなら、僕らが椅子に座ろうとして腰を降ろしたら右に向かって身体(回転軸である膝)が動いてしまうので、僕らは永久に椅子に座れなくなってしまう筈だ。

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