Scribble at 2024-07-29 11:16:00 Last modified: unmodified
PHILSCI.INFO でも『論語』の話を少し書いているのだけれど、「古典」あるいは「古典的な著作」と呼ばれている書籍だとか絵画だとか映像・演劇作品というものは、それを鑑賞したり読んだりする側にしてみれば、しょせん生きているあいだの数十年に渡って「利用」する材料の一つでしかない。それらが、どれほどの年月をかけて保存されたり受け継がれてきているのであろうと、個々人として関わるわれわれ自身においては、それらを扱う効用や価値というものは、せいぜい自分が生きているあいだにできることの範囲だけに限られるのが当然だ。したがって、これまでに何千年と読み継がれてきた『論語』のような古典であろうと、僕らはそれらを何千年にも渡って読み続けることはできないし、解釈や理解に何千年も費やせるわけではない。
このような、いわば当たり前のところから出発して考えるなら、古典を理解すると言っても、それには幾つかの限界があると分かる。まず、「理解」というものが、少なくとも他人に筋の通った説明ができるていどに咀嚼できることだとすると、一つの事項についてそこまでの「理解」に到達するためにかかる年月が1年だとすると、100項目ある古典を全て「理解」するには寿命が足りないという話になる。そして、たいていの古典研究者とか祖述者というものは、それでもよいという前提でしか古典に取り組めないわけである。なぜなら、100項目を1年で「理解」できる才能や知識があると自信をもつ(あるいは妄想できる)ほどの根拠など持たない人が大半だからである。しかるに、古典の注釈者にしても、一つの著作物を最初から最後まで扱うにあたって、十全な「理解」のもとに解説したり注釈しているなどという自惚れはあるまいし、そういう思い込みを排するスタンスで接しているのが堅実な仕事をする人物でもあろう。そこでは、何割かは分からないにしても、各項目を少しずつ「理解」したうえで一通りの注釈を解説をしており、次の機会に再び各項目の「理解」を少しは増やすあるいは引き上げることによって、理想的には読み返したり研究し直すたびに「理解」の度合いが少しずつでも上昇ないし前進するものと期待するわけである。もちろん、ほぼ全ての解説者や注釈者は、十全な「理解」に達しないまま死ぬ。それは、ヒトがせいぜい数十年で死すべきものであるからには仕方のないことである。いや、仮にヒトの生物学的な寿命が1万年だったとしても、1万年かけたら十全な「理解」に達する保証がどこにあるかと聞かれても、それに満足のゆく妥当な議論を与えられる人などいまい。
ただ、このような当たり前とも言える事実だけをもって、「古典の解釈に終わりはない」などと利いたふうな台詞を並べて、いつまでも学者としての成果を出さないような無能は、はっきり言って学界から追放するべきである。人文に限らず理数系であろうと、おおよそあらゆる学術研究は不完全な成果しか出せないのが当然であって、どういう基準でか「十全」あるいは「完全」な成果でなければ公表しないなどというのは、僕に言わせれば無能の言い訳に過ぎない。自分なりに納得できる度合いがどれほどであろうと、年月をかけただけの成果を成果として提出し、それが「業績」として称賛され広く受け入れられる学説や理論となるかは、そこから先の話である。どのような評価になるのであれ、世に自らの成果を問わないような者は、少なくとも「学術研究者」の名に値しないし、制度的な意味でも職責を果たしているとは言えない。