Scribble at 2023-10-16 07:59:18 Last modified: 2023-10-16 08:08:38

ここ最近、僕自身がイデオロギーとしては保守主義であるため、特にアメリカの思潮について批判的なことを書いている文章が多くなっている。もちろん、僕は分析哲学や科学哲学を学んできた一人として、その楽観主義とかアグレッシヴさとか、それからビジネスライクな研究プロセスとかは一定の評価をしたうえでコミットしてきた(もちろん、人によってはそういう「明るさ」の背後に一定の厭世観や失望を抱えていることも理解しているつもりだ)。したがって、似たようなテーマを扱っていても、具体的にお名前を出して気の毒だが中才先生のような古典の祖述というアプローチとは違うアプローチに従ってきたという自覚がある(もちろん、僕はそれらの良し悪しなどないと思うし、必要に応じてどちらを採用してもいいと思う。どちらか一つを選ばなくてはいけないという思い込みこそ避けるべきであろう。そんなものは学者としての首尾一貫性でも愚直さでもなんでもない)。

アメリカでもようやくフェミニズムとか黒人とかヒスパニックといった、デカいキーワードを振り回さずに sexism なり racism のバイアスを議論するような風潮となりつつあるようだし、それらを慎重に PC のような「イデオロギー的な魔女狩り」と区別して事を進める手順を構築している途中にあると思える。日本ですら、日本科学哲学会の告知でもご承知のようにコンプライアンスなり公平さなりを強調したマネジメントを志向する動きがある。ただ、それがどうして必要なのかという歴史的な経緯の調査や説明や解読や評価については、やはり圧倒的に不十分であることは明らかであり、どうも表面的に時代の流れとしてやっているだけの「いい人ぶった」左翼パフォーマンスのようにも思える。「女の子」に配慮してます、「メクラ」に配慮してます、「黒んぼ」に配慮してます、「東大にすら入れないバカ」にも配慮してます、というわけだ。

アメリカの黒人、ネイティヴ・アメリカン、それからヒスパニックらの現状とか歴史を学んでいくと、とりわけ分析哲学のようにジャズだのケツの穴だのと気楽なお喋りを100年近くにも渡って続けている、素人言語学者どものタワゴトにはうんざりさせられるし、最近では「分析フェミニズム」まで登場する始末で、まるでカルビーのポテトチップスのように多種多様な商品を書籍として送り出しては一過性の売上を得て終わるという、二流の広告代理店が展開するキャンペーンみたいなことを繰り返している感がある。しかし他方で、既に分析哲学は言語分析など殆どやっておらず(分析哲学を専攻する学生のほぼ全ては、教養レベルの言語学の単位すらとっていない)、いかなる哲学のアプローチであろうと分析しないなんてことはないという点で特別なコミットを必要としないという理由で、もう半世紀近くも前に空中分解なり雲散霧消したと言われて久しいわけだが、あいかわらず1980年代に出版されたテキストを再販したり文庫本にしている。

いったい、君らはなにがしたいのかという気がしないでもない。

金持ちの小僧が論理記号を駆使した風変わりでスタイリッシュな知的お喋りに身を任せたいというなら、別にそれはそれでいい。ただし、頼むから通俗的な意味においてすら「哲学」に関わっているとは言ってほしくないという気分はあるな。もちろん、こんなことを言っているからといって、僕がいわゆる現象学に鞍替えしたというわけでもない。もともと僕はカルナップやクワインだけでなくフッセルやハイデガーの業績も高く評価しているし、現象学のプロパーに言われなくともフッセルやハイデガーの著作物は翻訳だけで20冊以上は目を通しているし、何冊かの原書も所有している。たぶん現象学だけでも修士号レベルの素養はあると自負しているくらいだ(というか、その程度の哲学史なり他のアプローチへの目配せができなきゃ、国公立大学の博士課程には入れないんだよ)。

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