2022年02月13日に初出の投稿

Last modified: 2022-02-13

西区の大阪市中央図書館で本を返却したり借りなおしてきた。幾つかの棚を回りながら追加で借りる本を物色してみたが、『リヴァイアサンと空気ポンプ』だけにしておいた。新着図書として『デヴォン紀大論争――ジェントルマン的専門家間での科学知識の形成』(マーティン・J・S・ラドウィック/著、菅谷暁/訳、みすず書房、2021)が入っていて、これはかなり興味深いのだが大部で重い。これは別の機会にしよう。

他に科学史の棚を見ていると、どういうわけか科学者の責任だとかリスクだとか医療過誤とか HIROSHIMA とか、その手の本はたいがい装丁が異様なつくりで、デザインとしても未熟な印象が強い。そういうデザイナーしか使えない出版社だからか、それともその手の告発系(必ずしも陰謀論だとは思わないが)が好きな左翼もしくはネトウヨ編集者のセンスが総じて酷いのかは知らない。もちろん、スタンダードな科学書の体裁で〈まっとうなデザイン〉として出版されても、Facebook で和服姿の女性のアイコンでヘイトをばらまいてる劣化右翼(実際は「右翼」と呼ぶべきでもない、ただのバイト学生だったりする)みたいなもので、われわれのようなデザイナーにとっては、いずれにしても吐き気がする。無能の仕事というのは、やはり哲学の通俗本であれ科学の一般書であれ、どんな体裁を取り繕っても異臭がするものだ。だいたいにおいて大学院まで学ぶと〈臭覚〉が身に着くものだが、残念ながらサラリーマン編集者のレベルでは、単なる外国語秀才というだけの分析哲学のプロパーと同じく、その手の感覚を身に着ける機会がないらしい。

あと、大阪は維新行政だからか、地球温暖化について陰謀論を囁く(または大声で喚く)本も入っていて、この手の本は全く読む気がしないのだけれど、幾つか眺めたときに気になることはあった。それは、この手の本を書く人々の大半が全く科学史の素養を欠いているだけではなく、過去に向かってどういう論争や研究があったのかを調べようともしていないので、議論の経緯を殆ど知らないということだ。もともと陰謀論(だけではなく、れっきとした疑問や反論もあるにはあるが、日本国内で出回っているのは武田邦彦レベルの俗書ばかりだ)を信じやすい人々というのは、理数系の身分とかプレゼンスにコンプレックスがあって、しかし数学や物理などを中学や高校の教科書を読みなおすことから初めて真面目に勉強しようともしない恥知らずどもだ。よって、単純に科学の知識もなければ興味もない筈なのに、数式や専門用語を駆使する様子にだけはあこがれを抱いていたりする自意識が強いのだろう。あるいは、アインシュタインやウィトゲンシュタインのように「天才」と呼ばれたい強烈な自己承認欲求があるとか、その手の何らかの精神的な歪みもあろう。とにかく、堅実な努力なしに名声を得たいという歪んだ動機を抱えて悶々と生きている連中というのは、鼻くそをほじるような、あるいは MMORPG を1週間ほどプレイするような気軽さで業績とかセレブリティを手にしたいと欲しているクズなのだが、それができないことを知っていながら、競争社会や外国人や左翼や社会保障制度という藁人形を「伝統」だの「日本の風土」だの「単一民族」だのという御託を口にしつつ、自分が生まれながらに日本人というだけで代弁者を気取ってヘイトをばらまいていれば済むというだけの、コソコソ他人の権威や錯覚にもとづくフレーズを振り回してものを語る卑怯者にすぎない。

なので、そういう連中は地球温暖化の議論にしても、二酸化炭素によって地球の平均気温が上昇するといった巨視的なスケールでの影響関係を過去の科学者の多くは疑っていたという歴史を知らない。それを少しずつ証拠や議論を重ねて demonstration を積み上げてきたという歴史があるという事実についての知識が欠落しているのだ。それゆえ、関係がないことを関係があると(何らかの産業的・政治的・学界的に野蛮な利害関係ゆえに?)こじつけているように見えるのだろう。しかし科学史の正しい知識を得て言えば、それは全く逆である。

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