Scribble at 2022-06-04 08:01:05 Last modified: 2022-06-05 00:15:28

記者会見した林氏は「日大が思い切った決断をしたのだから、期待に応えないといけない」と意欲を語った。日大が抱える問題については「古くて非常にマッチョな体質を改革したい」とし、理事に女性を登用するなど体制を刷新し、風通しの良い組織を作る考えを示した。

林真理子さん、日大次期理事長に決定…「古くて非常にマッチョな体質を改革したい」

それはそうと、この林真理子という人物は20年近く前に直木賞の選考委員として『半落ち』(横山秀夫/作)という作品を「欠陥」作品と断定したどころか、日本のミステリー作家や出版社、それから読者も含めた「業界」全体を侮蔑したとして、当時は横山秀夫氏当人の反応も含めて大きな話題となったようだ。そして、困ったことに自分自身が事実誤認して早計な判断をしたにも関わらず、林真理子氏はいまだに過去の侮蔑についてはノー・コメントとしている。常識的に言えば、林氏の態度は「権威主義」(僕が日頃から支持している仕組みとは別の〈悪い権威主義〉)の典型であり、結局はこの人も日大の元理事長や元理事というチンピラ野郎どもと五十歩百歩で、既得権を守りたいだけの輩ではないかという気がする。しょせん、コピーライターの講座を受けたくらいで2年や3年で大手出版社からエッセイを出版してもらえたなんていう、伝手だけで物を書いてきたような人間に紫綬褒章まで与えたり、大学の理事長として迎えたりしているのだから、この国の文芸とか文学とか大学行政や大学運営も(もちろん一部だとは思うが)ていどが知れている。

僕が支持している権威主義というのは、「仕組み」と書いたように個人としての見識やスタンスのことではなく、社会的な制度のことだ。そのときの知見や大勢の判断において〈致命的〉と認められた間違いを犯した者からは、一定の地位や権限を剥奪し、いわば双六で「Xコマ戻る」地点から(本人にその気があれば)やり直させるというルールを強制し共有する。もちろん、かつての共産主義国や専制国家のように殺したりはしないが、少なくとも国家規模の政策や所属組織の全体にかかわる決定権は剥奪しなければ、無能な人間の影響を低減するという社会防衛の役に立たない。そして、間違いを犯したことが明らかであるばかりか、それについて何の反省も示さない者は、要するに矯正ないし更生の期待がもてないのであるから、社会的な制度としては双六のサイコロを振る資格も剥奪しなくてはならない。それが大学教授だったり業界団体の役員といった地位であるなら、それらの身分を剥奪するのが筋というものだ。いまのところ自由主義の国家で、私的な集まり(結社、団体)で認められる個人の地位を国家が法律で決めたり変えさせたりはできないため(それは憲法違反である)、ふつうは団体の内部で選挙しなおすよう起案しなくてはいけない。僕も、いまのところはそうするのが妥当だろうとは思う。しかし、それを自主的にしない団体やグループ(たとえば日本文藝家協会とか直木賞の選考委員会とか)は、自主的にやれる権利があるということは、逆に言えば自主的にやる責任があるのだから、「無責任」との誹りをまぬかれまい。そうして、その団体そのものの権威がなくなれば、「直木賞」などと勝手に言っていたところで誰も気にしなくなるし、「直木賞受賞作品」と声を上げたところで新聞やテレビは全く報道しなくなる。

これこそが、自由主義のしかるべき帰結であり、「マッチョな体質」とやらを抱えない組織の姿であろう。僕は殆ど彼女の文章を読んだことはないが、確か読んだという記憶が僅かにあるだけで、横山氏の『クライマーズ・ハイ』(映画でも NHK のテレビ・ドラマでも観たし、原作も読んだ)と比べたら何のインパクトもなかった。つまり、しょーもない紙屑を山のように印刷しておきながら、ひとたび手にした地位を追われないという現状にあぐらをかいているような人物が、いけしゃあしゃあと大学の理事長にまでなるのだから、僕の支持する〈まともな権威主義 = 権威に応じた成果がなければ権威の座から引きずり下ろす仕組みを制度的に備えた〉が日本で醸成されているとは思えない。

ということなので、正直なところ日本大学がどうなろうと知ったことではないが、理事長が交代しても本質的には何の変化もないだろうという見込みはある。

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