Scribble at 2022-01-19 15:41:04 Last modified: 2022-01-19 22:40:58

ジャッケンドフの著書でも紹介されている「ニカラグア手話」について調べると、特に日本では大半が「言語ビッグバン」などというキャッチーな言葉を使って、新しい言語が生まれた瞬間だの何のというセンセーショナリズムというか興味本位のブログ記事ばかりで、はっきり言ってうんざりさせられる。まるで実験動物かペットを眺めているような調子であり、人種差別、そして結局は障害者差別に通底しているメンタリティだという自覚のない凡人の無邪気さには、ほとほと呆れてしまう。

そのような瞬間をわざわざ観察したり議論するのは、学者だけがやればいい。われわれ言語学の素人にとっては、そんな「ビッグバン」など見ていようといまいと、我々自身が人として(とりわけ善く)生きるために重要だとは思えない。寧ろ、学者以外の人間はそうして生まれたとされる伝達手段について、可能ならどういうサポートができるのかを考えて実行するのが望ましいだろう(ここで、こういう苦言を呈しているのも、その一環である)。

正直、それが言語の生まれる瞬間であるかどうかを判定する素養もない者が、その事実を単純に「ナイスなお得情報」として共有したり議論しても、実は意味などない。僕は、啓蒙主義には半分しか賛成していないのであって、何か重要なことを学んだり知りさえすればそれで充分だというのでは、啓蒙主義は知識人やジャーナリストの自己満足でしかないと思う。知って、そこから何を考えたり議論し、成果を出すのかという欠くべからざる半分を問わない限り、幼稚園児が「よくできました」と判子を押してもらうようなことでしかない。社会科学をまじめに勉強した人間が、そんな成果の価値を問わない努力だけで人類の社会が保護されたり向上するなどというファンタジーを信じたまま、少なくとも現代の大学ていどの高等教育を修了することなど許されないのである。

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