Scribble at 2022-06-04 10:23:42 Last modified: 2022-06-04 10:36:12

そういや、昨日は出社日であった。いまだに書類のスキャン・データをメールで送付するとか、そういった執務室での手作業が必要な業務もある。それに、新しく購入したパソコンのセット・アップなども、使う当人がスキルとしてセット・アップできるかどうかはともかくとして、情報システムや情報機器の管理・運用を預かる部門の長として、買った後は社員が好きに使えばいいというものではないから、一通りデバイスの動作も確認したり、余計なプリ・インストールのソフトウェアを掃除したりして、貸与しなくてはいけない(もちろん、部下がいれば部下にやらせるに決まってるが)。

いつもどおりに家を出て地下鉄に乗ると、さすがに9時台だから満員ではないし、「混雑」と言うほどの乗客ではなかったが、それなりにたくさんの人が乗っている印象を受けた。そろそろ出社する人も再び増えてくるのだろう。なんだかんだ言っても、弊社のように就業規則でリモート・ワークが当たり前になるような企業は、思ったほど多くないのかもしれない。

そもそも昨年の時点で統計が出ている記事を読むと、日本では25%の事業者しかテレワークを実施していないという。それもそのはずで、政府はスローガンを連呼するだけで何のサポートもしないし、テレワークに必要な技術やサービスを選んだり導入する人材が大半の企業にはいないし、アメリカのように元から執務室で仕事をしなくてもいいスタイルがなかったし、おまけに日本では打ち合わせをしてから「せーの」で仕事をするという無責任な慣行があったため、自宅で個々に判断して仕事をするなんて、急にやれと言われても色々な意味で無理がある。新卒でも、やれ先輩の後について同行するとか、先輩と飯を食いに行くとか、同僚と社食でどうこうとか、そういう「漫画的」なサラリーマンの生活からは程遠い実態に面食らう人も多く、精神を病んでしまう事例も増えているという。(何度も注釈するが、僕は企業文化はまだ男性に有利なところが多いと思うので、敢えて女性も含めて「サラリー『マン』」と言っている。)

電車を降りるまで、こんなことをつらつらと考えていたわけではない。肥後橋で降りたら堂島に向かって黙々と歩くだけだ。そして出社したら仕事するだけである。それ以外に企業人として何をやることがあるか。

とは言え、休憩時間や会社を退出した後は別だ。昨日も久しぶりにフェスティバル・プラザのインデアンカレーで食事してから、堂島アヴァンザのジュンク堂大阪本店へ立ち寄ってきた。第一の目的は日本人が書いた Go のテキストを物色することだったけれど、ジュンク堂に入って3階まで上がると、最初にしばらく足を止めたのは文具コーナーだった。昨年から3階に何故か文具コーナーができている。アヴァンザの1階に入居しているデルタという文具店に恙無く仁義でも切ったからなのか、それなりに充実した規模でノートや筆記具を置いており、大半の商品はデルタと重複しているのだが、ジュンク堂の文具コーナーにしかないものもある。たとえば、僕が長年に渡って会社で愛用している LEUCHTTURM 1917 のノートだ。逆にデルタにしかないものもあって、たとえばジュンク堂に Rhodia のノートはなかったはずだ。そういう棲み分けのようなものはあるらしい。Editor's Note や MIDORI のノートは双方に置いている。

さて、いよいよコンピュータやネットに関する棚へ向かったのだ。でも、すぐに Go の本は見てしまったので場所を変えてしまった。日本人が書いた Go の本もあるにはあるけれど、残念ながら表紙だけで何かピンとくるものが感じられない。これまでに当サイトでご紹介したテキストに加えて読む必要があるとは思えないからだ。それよりも、時勢に応じてプログラミング言語のテキストは出版点数や書棚を占める分量も色々と変わるもので、或る意味では興味深い。もちろん20年くらい前なら Perl と Java と C が圧倒的だったし、15年ほど前からは PHP が Perl に置き換わり、10年前になると JavaScript、そして一時だけだが Ruby が増えたときもあった。5年前くらいからは各種の関数型言語が少しずつ増えてゆき、そうして現在は圧倒的に Python の本が多い。ただ、Java と C だけは売り場に占める割合が殆ど変わらないのは、やはり大したものだと思う。どちらも実際、金になるという事情があるからなのだろう。でも、Python の本は昔の Unleashed シリーズとか Complete シリーズとか、あるいは O'Reilly から出ていた巨大なパイソン本のようなものがなくて、どれもこれも結局は機械学習のツールを動かす道具と見做されているらしい。つまり、オリジナルのシステムを設計したり開発するためではないので、言語の仕様なんてどうでもいいということだ。たとえば TensorFlow を使うなら、それを扱うルールとして Python の構文が分かれば済む。なので、ここ5年程の間に出ている Python の本は、翻訳だろうと日本語オリジナルだろうと、どれもこれも同じようなものの作り直しや書き直しばかりに思えるので、あの巨大な本で少なくとも 2.7 系統は学び、Wiley から出ていた "Python Essential Reference" (Developer's Library、15年くらい前の本だが、これでも Python 3 の本なのだ)を片手に置いていた者としては、はっきり言って興味がない。

そして、いつものように辞書のコーナーへ向かう。新しい国語辞典を眺めて、やはり普通のサイズの辞書では文字が全く読めないため、次に買う機会があれば机上版や大型版になるのだろう。国語辞典を携帯する日本人なんて滅多にいないのだし、別に持ち運びのことは考えなくてもよいからだ。問題があるとすれば、次に大きな国語辞典を買うほどの年齢になって、そんなものを置ける部屋に住んでるかどうか分からないという心配の方だ(そして、そんなものを使う必要があるのかどうかも分からない。もちろん80歳になっても哲学者でいるとは思うが、国語辞典が必要かどうかは微妙だ)。

そして、英語の辞書も一通り眺める。当サイトで公開している「英語の勉強について」という論説でも取り上げたいのだが、英語の教師に「和英辞典を使ってはいけない」と生徒や学生に教える人がいるらしい。それはそれで何かの見識なのだろうとは思うが、いくつかの理由を調べてみると、たとえば「英文が酷いから」というものがある。でも、それはネイティブに検閲してもらえばいいだけではないのか。和英辞典、つまり日本語の見出しで英語を訳語として並べる辞典という形式の話として、根本的に不適切だという理由がない限り、それは単に「俺はこの辞書が嫌いだ」と言ってるだけの世間話に過ぎない。

また、和英辞典を否定する理由の一つとして「英語で考えていない」という、よくある錯覚が引き合いに出ることも多いようだ。でも、正直なところみなさんは日本語のネイティブとして「日本語で考える」なんて本当にやってるんですかね。それは、日本語で自分で黙考してるとか、日本語の文章を読みながらものを考えているという状況で日本語を使っていることを、思考の属性だと誤解しているだけではないだろうか。思考という認知プロセスに日本語も英語もない。"Mother fucker!" と親指を突き立てられたら、日本人だろうと意味を知っているものは腹を立てる。それは、この表現を聞いたときに英語の思考などという専用の回路を働かせているからではなく、この言葉の組み合わせが〈侮辱された〉という感情に結び付くようになっているからだ。

逆に、「英語でものを考える」などという、認知科学や認知言語学の観点から言って何の根拠もない屁理屈をもとに言語を語っている人々は、英和辞典を日本人として(日本語でものを考えて)使っているときは、正しい日本語の表現を本当に正しく書いたり話せているという自信でもあるのだろうか。僕には、そういうことを言っている人々の大半は、日本語話者としても相当に程度が低い人物だろうと思えるので、にわかにそんな人々の日本語の習得についても信用する気にはなれない。なんといっても、純粋日本人とか愛国者を名乗る連中の大半が、中学生にも笑われるようなしょーもない作文しかできない日本語ネイティブなのだ。生まれ育ったところの言葉を使っているというだけで、人様に見せられる表現が使いこなせるとか、いわんやそれで飯が食えるなどと思い上がるのはいい加減にしてもらいたいと言いたい。

他に、生物のコーナーで蜘蛛の本をいくつか物色したり、数学のコーナーでは相変わらず黄金比と圏論のロクでもない本が続々と出ているのを眺めたり、生命科学や地理学や天文学の棚では雑な本しか出てこないのをウンザリして眺めたり、経済の棚では経済学の哲学という新刊を開いて、これのどこが哲学のテーマなのかと困惑させられたりしていた(「経済学基礎論」とか「経済学方法論」という、経済学プロパーの基礎分野として仕切りなおすべきではないか)。あとは、神戸大の松田先生が講談社選書メチエの一冊として『夢と虹の存在論 身体・時間・現実を生きる』(2021)を出されている。なかなか守備範囲の広い方なので、なるほどライプニッツの研究者だけのことはあるという雑な感想しかないのだが、たまたま興味が合った読者には良い入門として受け取られるものなのだろうし、そういうつもりで通俗書の体裁からは外れた書き方をされているように思う。これはこれで見識だ。

他にもいろいろと見て回るのが恒例なのだけれど、もうここでいちいち書くようなことでもあるまい。ちなみに、哲学の棚は全く見てない。

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