Scribble at 2024-12-02 11:52:34 Last modified: 2024-12-04 21:54:22
「方法論的楽観主義者」というのがいて、古典的な業績を残したような人物については、その「有益な」業績だけを残して後世に伝えればいいのであり、他の(ひょっとして良からぬ過去を含めた)その人物のパーソナリティなどは些事であって伝えるべきではないという。これは、表面的には効率とあらば何であれ歓迎し尊ぶ昨今の風潮に適っているかのように見えるが、ではその効率とはなんであろうかと考えてみるに、もちろん偏見や誤謬を簡単かつ急激に広範囲へ普及させるという実情にもなりえるというリスクを常に抱える。
だが、昨今の風潮は更に進んで加速主義を唱えており、これは或る意味では社会科学的なスケールでのシニシズムとも言えるわけだが、仮にそういうリスクゆえに間違いや偏見の急速かつ広範囲な普及が生じようと構わないと主張する。なぜなら、それによって被害を受ける者がいようと、それは過去の成果を活用できなかったか間違って活用した文化的進化論上の落伍者にすぎず、そういう人々が人類の全体を占めているのでない限り、人類の叡智を前進させるためには避けられない犠牲だからだ。
これは、一つの極論であり、こう言ってよければ対極にあると思えるような、(体制にとって都合の良い、という大きな但し書きはあるが)全員を救済すると称する共産主義や社会主義に真っ向から対立する思考と言えるかもしれない。
もちろんだが、僕の奉じている「人類史スケールの保守主義」は、これらのどちらも傲慢として斥ける。つまり、市場原理に委ねようと、あるいは官僚機構に委ねようと、しょせんは社会や集団を自分たちが制御し管理できるという思い上がった思考でしかないという点で、これらはどちらも度し難い思考だと言える。もちろん、僕らのような保守主義者と言えども制度や法令を軽視しているわけではないし、まともな内容と効力を持つ自由の観念を忌避しているわけでもない。日本でこれまでに論壇なりマス・メディアの一部を占めてきた、思慮の浅いインチキ右翼やデタラメな自称保守といった人々は、ものごとを判断する基準に自律性がなく、要するにアメリカで白人に虐められた腹いせで反米保守を叫んでいるも同然の子供じみた態度を、なにか思想であるかのように言葉で飾り立ててきたにすぎない。要するに、これまでの保守や右翼というのは、ただのコンプレックスや被害妄想を思想であるかのように飾り立ててきただけのことである。