Scribble at 2021-05-12 07:03:06 Last modified: 2021-05-12 12:05:00

確かに、ある特定の思想に行きついてしまえば、もう文学とは言えないかもしれない。なぜなら、文学は答えではなく、常に問いを続ける過程だからだ。けれども、良く生きることを自分に課したサリンジャー本人にとって、自分が書くものが文学かどうかなど、もはや問題ではなかったのではないか。

サリンジャーの見事な人生 映画「ライ麦畑の反逆児」、都甲幸治さん評

昨日は連れと『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』をアマゾン・プライム・ビデオで鑑賞した。サリンジャーが禅宗とかラーマクリシュナのヒンドゥー教に感化されていたことは知っていたけれど、彼の生活や信条の移り変わりに対するインパクトがどれほどあったにせよ、いささか変化のきっかけとしてセンセーショナルに描かれ過ぎていて、やや滑稽な印象を受けた。あれでは彼の隠遁生活や結婚の破綻や作家活動といった出来事が、ほぼ〈宗教〉というキーワードに回収されてしまう。もちろん、既存の幾つかの評伝のように、西部戦線で被った PTSD だとか、あるいはもともと発達障害に類する傾向があったなどというストーリーに回収してしまうのも乱暴だ。そして、いまのところ僕の理解は上記で都甲氏が書いている内容と同じである。以前に、作品の発表を止めて隠棲したハーパー・リーについても、当サイトで同じ主旨の感想を書いた筈だ。

ちなみに、画面に初めて登場したときは分からなかったが、数分後にケヴィン・スペイシー(ウィット・バーネット役)だとわかったときは驚いた。役作りのためだろうが、よくあんなに太ったものだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook