Scribble at 2021-05-11 07:45:51 Last modified: 2021-05-12 11:38:01

こういう単純な方針を採っている理由は、まず僕が大して記憶力のない人間であるということです。もちろんノートを録ったり専用の読書カードを作ったりもしましたが、自分の考えをかたちづくるための素材になるのは強く留めている記憶です。

他ならぬ凡人である僕の読書方針について

子供の頃から自分なりの基準で、僕は物事を記憶するのが下手だし生理的な能力から言っても記憶力なるものが弱いと思っている。それが他の基準に照らして事実であるかどうかはともかくとして、そういう前提で勉強したり仕事をする工夫をすると、手間はかかるが堅実に成果は残るというものだ。英単語を1日に数百個ずつ覚えるような東大生は掃いて捨てるほどいるが、それらの大半がロクな実績も上げられない大人なり社会人となって埋没していくのは、もちろん世の中で必要な能力は記憶力だけではないからなのだが、記憶するとしても辞書のように貯め込むだけでは内部での体系性や整合性がなく、また外部との脈絡という繋がりも欠落しているため、非常に雑で凡庸な言い方だが「生きた情報」ではないということだろう。もちろん、僕が一人の大人として、いわんや哲学者を名乗る者として、十分にそうした知識を得ており活用していると言い張れる保証などないが、少なくともそうありたいと望む一人として幾らかの工夫を上記のページなどで(読んだ人がそれぞれ俎上に上げてもらうためにも)提案している。

思えば、僕がそれなりに蔵書を抱えたまま容易に手放さないのも、初めて読んだ限りでは十分に内容を掴み取っていないとか、異なる脈絡で理解し直すべきところを理解していない可能性があると思っているからで、他のチャンスでは違った読み方ができるかもしれないと思うからだ。もちろん、たいていの本は何度も読んだりしないわけだが、読み返すと違った印象を受けることが何度もあったので、それを覚えている限りはなるべく自宅に置いておきたいと思う。

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