Scribble at 2026-05-17 14:55:48 Last modified: 2026-05-17 16:06:30
どこかでジャック・ロンドンが語ったとされるフレーズが引用されていたのを読んで、試しに『白い牙』を手に入れて眺めてみたのだが、どうも僕はこの手の動物を主人公にした作品にはついていけないものを感じた。どのみちヒトは他人の内心を代弁することなどできないし、ましてや他の動物種の内心(そういうものがあればの話だが)を想像してヒトに説いて聞かせる言語という枠内で表現できるという仮定にも、哲学者として重大な疑義を感じるので、どう書かれていようと嘘臭いとしか言いようがない。もちろん、最初から寓話であると割り切ることも一つの態度ではあるけれど、そんな無理をして得るものが、他の作家によってヒトの話として書かれたものと比べて隔絶した価値や意義をもっているとは、とても思えないのである。言いたいことがあるなら、最初からヒトの話として書けばいいのであって、別に狼の話でなければ表現できないことを知る必要はないし、既に述べたように我々は狼が本当に認知していることを「同じように」認知することはできないのだ。それは、まさしく文学的に言えば傲慢というものだし、認知科学的に言えば無知というものだし、哲学的に言えば未熟というものであろう。
というわけなので、いまでは殆ど読む人がいなくて主要な作品の多くが絶版あるいは文庫本ですら品切れになっているのも当然というべきであろう。そして、ウィキペディアで紹介されていた「日本ジャック・ロンドン協会」なるものも、既に20年以上も前に更新が停止していて、サイトが Wayback Machine でしかお目にかかれない廃墟であるという事実によっても、単なる流行大衆文学なんぞが文学的・思想的な影響力など持ち得る筈もないことが裏付けられる。だが、先日に亡くなった佐藤愛子氏の父親である佐藤紅緑氏の通俗小説『あゝ玉杯に花うけて』などが戦前の軍国少年たちを精神として育成した事実はあるし、もちろん大衆文学だからといって他の影響力が皆無だとは思えない。だからこそ、このような作品であろうと、素人のツイートと比べて出版されるのだから、その内容に問題があるなら矮小なうちに叩き潰しておくことも一つの対策なのである。僕が、マスコミで発言権があるという有利な立場から正論であるかのように作家が非難しているにすぎない、部落差別に対抗する言葉狩りというのを、彼ら作家に反対して積極的に支持しているのも、同じような理由からである。言葉狩りは、芸術や文学や言論の名において行われる暴力への抵抗権であり正義である。
ジャック・ロンドンの話はもういい。たぶん、再び彼の名前が当サイトに登場することはないであろう。それよりも、この「日本ジャック・ロンドン協会」なる組織について、少し書いておきたい。こういうものが有志あるいは同好の志によって立ち上げられたり支えられる他にないという実情は、僕もよく分かっているつもりだ。かつて、僕が大学院生だった頃に参加した「京都科学哲学コロキウム」の話を PHILSCI.INFO で書いたことがあるけれど、マイクル・ダメットをゲストとして迎えたり、それなりに意義のある活動をしていたのだが、解散してから後を受けた組織が数年で活動停止になってしまった。僕は、このような組織がネットによって意義を失ったというインチキ社会学や素人社会学の解説には強い違和感をもっていて(そんなことは中学生でも言える)、学術研究の組織がネットの掲示板やメーリング・リストで代替どころか凌駕できるなどという発想は、それこそケータイ一つで結婚したり友達を作るような人々と同じ次元で自分の意見を表現しているだけに留まっているか、あるいは十分に表現できていると思い込んでいる証拠だろうと思う。たとえば、ケータイがきっかけで結婚したり友達を作る人たちであっても、必ず直に顔を合わせて話をするという過程を経ているし、そこも重要だと考えているはずであって、画面に表示されるポイントやスペックだけで結婚相手や友達が見つかるなどと本気で考えているような人は、寧ろそのようなサービスのユーザとしては未熟と言うべきであろう。
したがって、組織づくりや組織の運営というものをオンラインのサービスや機能だけで構築したり維持できるかのような妄想に取りつかれたまま、名義だけ組織なり研究団体を名乗ることだけで「箔が付く」ていどにしか学術研究コミュニティを理解していないなら、そんなものがメーリング・リストにも劣る仕組みでしかないのは当然である。僕は学部時代に哲学の先生(現象学の研究者だったが)から、とにかく哲学する基本的な才能というものは、「拘り」や「粘り強さ」や「諦めの悪さ」だと何度も言われた。そういう点から言えば、わざわざ「日本ジャック・ロンドン協会」などと、「日本」ましてや「協会」といった言葉まで使って組織を立ち上げておきながら、たかだか10年で活動を止めてしまうというのは、たとえ活動の主体が時間や才能に学者よりも大きな制約があるアマチュアだったとしても不見識だと思う。しかも、英米文学の専門組織でありながら英語でのメッセージすら用意もできなかったとあっては、失礼かと思うが、ジャック・ロンドンの作品を原書で読むていどの力もない人たちだったのであろうと言わざるを得ない。