Scribble at 2022-12-27 09:29:25 Last modified: 2022-12-27 12:10:16

考古学を学んでいた小学生の頃から、とにかく「ファン」という言葉が大嫌いであった。これは今でも変わらないように思う。よって、僕にとっては「オタク」も derogatory な言葉であって、要するに差別語である。サブカルチャーの意義や価値を無視したり軽視する意図はないけれど、PHILSCI.INFO でも書いているように、それに携わっていると称している連中の中には、それが幾ばくかであれ金銭や名声に関わるならなおさら、クズみたいなことをやってる人物もいよう。

そもそも学術研究や知識や思想については、コミットメントするかどうかの違いしかない。よって、何か段階とかレベルとか進度があり、あたかも素人、アマチュア、プロパーなどと柔道の段や相撲の格付けみたいなものを想定するのは、端的に言って錯覚というものである。それが宗教団体のように神や真理への近さであると思い込んでいるなら、それこそ重大な偏見であろう。もちろん、プロパーは素人に比べて一定の素養をもち、一定の訓練や体験を経ているという点では、所定の分野とかテーマについて優先的に意見を述べたり物事を決める権威があるという擬制が認められてよい。これは僕がふだんから言っている権威主義だ。

こういう次第で、素人とプロパーの「中間」みたいな立場があるというのは、僕に言わせれば錯覚である。大学に籍を置いていなくても僕は科学哲学の「研究者」と自認しており、それには一定の責任が伴うことくらい分かっている。素人よりも発言権があって、なおかつ責任もない「ファン」とか「アマチュア」とか、あるいは最近の流行語で言えば「独立研究者」なんて、僕には表面的な人気だけが欲しいインチキ芸能人と同じである。そもそも、知識や学問について好意があるとかないという基準でファンであるかどうかみたいな話をしていること自体、知識や学問を正確に理解していない証拠であり、したがってそういう意味でもファンというのは何を言っていようと素人でしかないのである。

考古学や歴史学においても、『日本書紀』や『古事記』が正確な歴史の記録だと妄信しているような自称歴史ファンというネトウヨがたくさんいるけれど(もちろん僕らは学術研究者として参考にはする)、かような連中は国史、なかんずく歴史を語る資格などないし、「素人」だの「ファン」だのと自称して責任逃れをしたまま公にものを語ることは、大人としての見識や節度(まさに無知無教養な国粋主義者どもが口をつぐむことこそ、「日本の美徳」と言うべき美しい節度というものであろう)を欠いた傲慢というものである。そもそも、かような史書というのは国家官僚が自分たちの都合で作るものであり、スメラミコトの心情なり内心を反映しているとは限らない。それは、現在のマスコミが出版する数々の興味本位な記事で明らかであろう(中には「元皇族」と自称して、経験したこともない宮中の事情についてデタラメなことを書いている輩もいるようだが)。同様の指摘は、もちろん僕がいま読み進めている『大鏡』のような著作にも言える。

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