2018年06月15日に初出の投稿

Last modified: 2018-06-15

事実としても言えると思うが、僕はつねづね「ウェブは歴史を知らない」と書いてきた。これは、単にインターネット接続が普及した 1990 年代後半からあとのデータにウェブのコンテンツの大半が限られているというだけの意味ではない。更には、過去の出来事なり歴史というものを人がどう受け止めるかについての論説が足りないという意味も含んでいる。いま進行している出来事について語るコンテンツは、それこそ Medium や The Atlantic や reddit.com において、刻々と山のように蓄積していっている。その数はあまりにも膨大であり、果たしてそれが単純に良いことなのかどうかすら考えざるを得ない。ウェブにあるのは、現時点で起きている事についての膨大な反応のデータである。しかし、それは概念としても人が理解する内容としても「歴史」とは言えず、ただの「ログ」であろう。

とは言え、この対比は記録技術や記録内容の量や精度の向上とか、そもそも記録をどれくらい簡単に取得して残して伝達できるかという点において、恐らくは常に新しい時代が優勢である。いまでは大金持ちでなくても、仕送りとバイトで生活している学生が毎日の晩御飯を撮影して、どこか遠くの国で同じくらい平凡な生活水準で生きている他人が簡単にその写真を見て学生にコメントを伝えられる。いったい、古墳時代の奈良や古代ギリシアのアテネにおいて、そんなことができた者は天皇だろうと哲学者だろうと一人もいない。よって、この圧倒的な分量や緻密な精度のログを歴史として咀嚼できるなら、少なくともこれからの「歴史」は過去よりも格段に幅広く正確な内容をもつ筈である。

しかし、恐らくそれは楽観的な期待だろう。なぜなら、膨大な分量のデータの山から、われわれが学び取るべき有効で正確で、しかも正しいデータを選び出す基準がなければ、そのような作業を Google や Amazon の技術者に委ねなくてはならなくなる。その品質たるや、アマゾンのカテゴライズや Google の検索結果の愚かさを見るだけでも、取捨選択の基準として採用するに値しないレベルであることが分かろう。だが、皮肉なことに、われわれがそれぞれ膨大なデータの山から適正なデータを選び出す基準というものは、ただわれわれ自身が「歴史」の内容として何を期待するかという選好に依存しており、要するにわれわれは欲しいものだけを選び取るという誤りに陥りやすい。それゆえ、そのような基準を形式的・抽象的・あるいは包括的に論じているような文章とか、端的に言って歴史学の業績に学ばなくてはならないのであろう。

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