Scribble at 2022-01-06 17:46:16 Last modified: 2022-01-08 12:22:09

子供の頃に、スプーンのくびれた個所を親指と人差し指で摘まんで擦り合わせながら、スプーンが曲がるかどうか試したことのある人はいただろうと思う。そして、僕と同じようにスプーンが曲がった人も多かったと思う。あんなものは、スプーンの材質が熱に弱ければ幾らでも曲がるのだ。おまけに、コンビニエンス・ストアで弁当を買った際に渡されるような箸で食事すると、相当な頻度で割り箸を握り潰してしまう僕と同じ程度の握力がある人なら、熱すら関係なくスプーンていどの物体は曲がる場合もある。

すでにご承知のとおりだが、僕らの世代が『2時のワイドショー』でせっせと眺めていた心霊写真とか(そういや、どうして平日なら授業が終わってもいない午後の2時に自宅にいられたんだろうと不思議に思ったことはあるが、ああした番組の記憶は恐らく夏休みのものであり、僕は鍵っ子だったために一人で自宅にいたのだ)、あるいは念写とかのデタラメな話は、もうすっかり人々の関心を惹かなくなってしまった。結局のところは、僕らの生きる基準とかものを考える範囲というのは、現世だったり、現在を含めた時間軸上の過去や未来にしかなく、しかも現世や現在だけですら圧倒的な分量のデータに囲まれている昨今、もはや宇宙人や超能力者なんていようがいまいが、周りにいる人間の方が不可解で奇妙で胡散臭く、理解不能なことをする連中だと分かってきたという事情があるのだろう。僕は、これは一つの〈良いこと〉だと思う。人間なんて、自分自身についてすら分からないことだらけだ。ましてや他人ともなれば、ヤクザ、外国人、ネトウヨ、科学哲学者、オタク、カルト信者、大阪人、文部官僚、地下アイドルなど、およそ考え方や生活基準として色々な人々がいて、その多くは理解不能なことを価値判断の尺度や根拠にしていたりするし(ただし「必ず違うものだ」と決め込むことにも問題はある)、中には面白い人もいれば、絶対に間違っていると思える不届きな手合いも多い。しかし、どのみちそれが現実だろう。スプーンなんて曲げられなくても、不可思議な人間はいくらでもいるのだ。

おそらく、あなたにとっての僕も、そういう一人なのかもしれない。しかし、だからといって自分が特別な人間だとか、人を超えた存在だ、などという自意識をもつなんてことはない。

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