Scribble at 2022-01-27 20:46:16 Last modified: 2022-01-30 00:28:48

僕は、たとえば Bill Bryson だと "One Summer: America, 1927" みたいな本は好きだけど、"A Short History of Nearly Everything" みたいな本は読む気がしない。同じく、日本でもどこかの大学の学長さんがジャレッド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなどの向こうを張って人類史や思想史みたいなスケールの通史を続々と出版しているけれど、あんまり感心しないし読む気もない。哲学者として、そういう雑な、言っちゃ悪いけど2,000円ちょっとで買えるような新書で何が分かるのかという気がするし、実際に人類史どころか僕が本を読み始めてから50年にも満たないあいだに見聞きしてきた出版物の歴史を思い起こすだけでも、そんなものが人類の学問や技術や道徳や政治情勢にとって何の役に立ったのか、甚だ疑問だ。かつてはトインビーなんかをせっせと読む人がいたけれど、それでいったい世の中どころか自分や家族のために何ができたんですかと聞きたいね。

こういうことを書くと、僕が何日か前に日本の社会学者を冷笑していた態度に反すると思われるかもしれないが、僕はダイアモンドやハラリらのような人々が手掛ける「人類史」の類に属する雑な通史が大嫌いである(そして岸君には気の毒だが、逆に日本の社会学者が大好きな部落やAV女優や東京の田舎者の生活ディテールに関する「厚い」だけの刹那的なメモ書きみたいな著作物にもほとんど意味はないと思うんだ。僕に言わせれば典型的なセンチメンタリズム以外のなにものでもない)。もちろん、もっとマイナーな小物のライターとか三流哲学教授が書く哲学史の類も、はっきり言って読む気がしないし、国公立大学の大学院へ進学するのに哲学史の些末な蘊蓄が必須でもなんでもないことは、神戸大のドクターだった僕自身が証明しているわけで、実際に哲学の学生となるのに必要ない。

ちなみに、それらへ暇潰しの読み物として目を通すこと自体を否定はしていない。そんなことは、アダルトビデオを観たり、野良サッカーに興じたり、王将で焼き飯を食うことと何の差も違いもないからだ。凡庸なヒトの個体の生態として好き勝手にやればいいのである。しかし、それらに何か社会的・学術的な「意義」があるかのごとく思い込むのだけは、愚かな自己欺瞞へ陥る自意識プレイに過ぎないのだから、やめていただきたいと言いたいだけである。

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