Scribble at 2022-06-09 18:19:11 Last modified: 2022-06-10 11:04:11

千葉県総合教育センターの依頼により、1996・10・4、15、25の3回にわたり、千葉県の公立高校の10年目の先生がたに高等学校教職経験者研修として行った講演の内容です。

高校での情報教育への期待

もともと、数値解析ではスタンダードな「ラグランジュ補間(法)」についてウェブ・ページを検索していて、上記の著者が公開している解説を見つけた。そして、著者について少し興味があったので、色々と他のページも眺めていたのだが、1996年の時点で高校で情報を教育するよう熱心に説いておられたようだ。その後も、現状としては高校の教育課程に「情報」という科目は採用されたものの、必須ではないためにたいていの高校では教えられていない。また、まともに教えられる教員もいないというありさまが続いて、近頃は IT ゼネコンや教育系のネット・ベンチャーといった〈出入り業者ども〉に文科省が丸投げして高校生に教えようなどという虫のいいプランが進行しているらしい。当サイトでは何度も言っているが、そんなことをして「日本のスティーブ・ジョブズ」や「日本のビル・ゲイツ」や「日本のジェフ・ベゾス」などなど、要するに業界を支配する企業やサービスを育て上げるような人材は〈絶対に〉育たない。せいぜい、IBM や NEC や富士通の3次請け(官公庁や銀行から見れば5次請けくらい)の会社で働くブルーカラーが量産されるだけだ。そもそも、凡人が考案して凡人が実施している教育なり授業で成功者や天才を育てようなどという発想自体が無謀であり馬鹿げている。制度的な教育における官僚や教員、つまり〈サラリーマン〉どもがやるべきことは、talented / gifted というべき子供の邪魔をしないこと、そして(自分たちを遥かに凌駕していると分かるような人材を)見つけたら率先してサポートすることだけだ。

さて、上記で紹介した文章は高校の教員に向けた講演の記録であるらしく、なかなか卓見と言うべき興味深い指摘もある。僕も、「ジョブ型」などと言われるよりもはるかに前から、自律的な方針をもって、あるていど結果責任を負うような働き方が求められるようになってくるだろうし、特にベンチャーでは課題を与えられてこなすといった受け身の社員は不要だと思っていたので、著者の意見には賛同するところが多い。

もちろん、自律的に目標を自分で立てて動くとは言っても、僕から見ればその起案するスピードとかフィードバックを正確に分析して PDCA のようなサイクルを回すのが、たいていの社員はとにかく遅い。なので、やはりそこは自律的であればいいというだけではなく、適切な運用にまで導く役割を上長が果たさなくてはいけない。だからこそ、上長が有能でなければ、とりわけベンチャーなんてすぐに悪循環となって倒産するのだ。何か思いついて、やってみて、成功でも失敗でも次のプロセスに反映させる、なんてことを、たとえばシステム開発で設計をやっている立場としては、(企業人として有能かどうかは、これだけでは測れないとしても)僕は数分の単位でやっていたりするのだ(これがよく言われる unit test の実態である)。しかし、「自分で考えて行動する」ということにしか価値を置いていないと、1か月やってみて数字として比較できるようにしてから次の計画や行動を考えるなんてやり方が、そもそも間違っているということに気づかない人も多い。そういうプロセスは早く回せたらそのほうがいいのだから、「どうやったらフィードバックするプロセスを1か月から1週間に短縮できるのか」も考えなければ、全てのビジネス施策を1か月の単位で試行錯誤するなんていう馬鹿げた実務になってしまう。それこそ、ただのルーチン・ワークであって、クリエーティブではない。本来、「クリエーティブ」というのは、見かけだけをいじくりまわす三流のデザイナーのための言葉ではないのだ。真のデザイナーであれば、業務プロセスも見直して初めてクリエーティブでありうる。そして、同じことは経理だろうと営業だろうと通用する理屈なのだ。

ただ、上記のページで著者が述べている内容には、いささか首をかしげる点もある。たとえば、「若い人にはゲームなどで親しんでいる。ワープロや表計算のソフトは使えるようになるのは、利用する機会さえあれば数日で十分である。現場に配属になれば、否応なしに使わされるので、自然に習得できるともいえる」(3・1 新入社員の「コンピュータ」リテラシには満足している)という箇所だ。これは要するに、いまで言えば「デジタル・ネイティブ」ということかもしれないが、既に実態としてはっきりしたように、デジタル・ネイティブとはつまるところビジネス・モデルの「部品」として最適化されただけのユーザのことであり、決して情報通信サービスの作り手になるようなリテラシーやスキルはもっていない。ゲームのプレイヤー、しかも e-sports などともてはやされている「プロ」のプレイヤーですら、彼らの大半はレイトレーシングの原理を理解していないし、線形代数の問題も解けない。一般のコンピュータのユーザともなれば、コンピュータを「扱える」とは言っても、デスクトップのショートカットからアプリケーションを起動したり、普段から使っているアプリケーションでメールを読み書きするていどのことであり、メール・ソフトの設定を変更したりはできない。たとえば、Google で既に対応している OAuth を使った方式でメール・サーバにログインするようにクライアント認証の設定を変更するなんて、たいていの40代以下のサラリーマンにはできないことである。そもそも、どうやったら設定を Google とメール・ソフトで変更できるのか、変更する方法を調べるには何を検索するべきなのかということも分からない。結局、通信とかコンピュータの動作について何の興味もないのであるから、わかるわけがないし、わからなくてもいいのが現在のコンピューティングなのである。

よって、ビジネスは知らなくてもコンピュータの扱いは分かる人が増えているとか、デジタル・ネイティブに世代交代が進んでいるから情報やコンピュータのリテラシーが上がっているなどというのは、完全にデタラメであり錯覚である。無知なジャーナリストや学者が、「多くの人が自分たちと同じていどに分かって使えるようになってきた」ということでしかなく、そんな認識で何かが〈良くなってきた〉とか進展しているなどと公の場で言い立てるのは、典型的な下方圧力でしかない。上記の著者が、そういう下方圧力を手伝っているとまでは思わないが、パソコンでゲームしていて慣れている人が増えたという程度のことで、何かが劇的・本質的に変わるなどとは期待しないことだ。それこそ、文科省の小役人どもと同じ理解にとどまって満足するという不甲斐ないことになってしまうだろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook