2022年05月12日に初出の投稿

Last modified: 2022-05-13

csh / tcsh のページをいくつか当サイトに掲載している。これらを作った趣旨は既に説明してあるのだが、改めて説明すると、昔から UNIX や GNU/Linux のシステムで仕事をしている人々が使ってきたツールやプログラムを、それらが本当に「良い」ものなのかどうかの判断をした上で乗り越えるべきならそうするためにも、正確に理解して使いこなす必要がある。これは、古典落語や歌舞伎で江戸時代から続く技能について、たとえそれらを何らかの意味で改善したり向上したいと望む者であろうと、まずはそれらを訓練して習得しなくてはいけない事情と同じであろう。あるいは、現代の物理学を何かの点で進展させたいと思うなら、もちろん現行の物理学を勉強しなくてはならないわけである。物理学の最低でも博士号すら持っていない人間が「アインシュタインは間違っていた」とか「量子論を乗り越える」なんて電子書籍やウェブ・ページを公開していようと、そんなものに飛びつくのは陰謀論が大好きで学歴コンプレックスに押し潰されているネトウヨや精神異常の人間くらいのものだろう。

少し長い余談となるが、僕ら科学哲学者は、別に物理学を進展させようと思って研究しているわけではない。物理学が仮に全く進展せずに停滞していようと、そんなことは哲学者としての僕らにとってどうでもいいことだ。将来の物理学が何も新しい実績を生み出せなくなって、どうして物理学を専攻する人間の大半がそうした進展に寄与できない無能ばかりになったのかという話になったとしても、それは哲学の問題ではなく、心理学や社会学や経済学や教育学の問題であろう。逆に言えば僕ら科学哲学者は、そういう皮肉な意味でも、物理学者に「理論の何たるか」とか「物理学のなんたるか」を指図したり教えようとしているわけではないのだ。もし科学哲学という学問について、そういうことをしたがる傲慢な連中だという妄信をもっているなら、つまりファインマンのような哲学嫌いとか、あるいはブルジョア哲学としての科学哲学を敵視する岩波書店が撒き散らしてきた偏見を妄信している人がいるなら、科学哲学のプロパーとして以上のような助言を与えておこう。自然科学者は、哲学者に何か研究を指図されたり成果を勝手に解釈されると怖がる必要はない。われわれ科学哲学者は、物理学や物理学者が世界の真理に到達するかどうかなんてことに関心はないのだ。まさしくファイヤアーベントが正しく言い放ったように、anything goes(好きにやってろ)というのが自然科学に対する哲学者のスタンスである。しかし、これも昔から誤解があるように、だからといって未熟な哲学・思想オタクや現象学者の多くがそうであるように、哲学を自然科学と(真理とか自然について)何か対立したり競合するアプローチや学科だと考えることも無益だと思う。これを、一部の哲学研究者が言うような「自然科学への譲歩」だの「科学主義」だのと言って、学部レベルの数学すら勉強しないで科学を語る無能が哲学には昔から山のようにいるのは不幸なことである。

かなり話が逸れたのでもとに戻すと、いま ed について調べていた。それはチンコの話ではなく、UNIX 用に開発されたテキスト処理のツールについての話だ。これを英語として検索してみても、結果として弾き出されてくるのは殆どが「使ってみた」とか「ご説明」の類であり、はっきり言って GNU ed プロジェクトのマニュアルを雑にまとめた中学生の自由研究みたいなページばかりである。英語圏の人間ですら、大半がそういうクズを撒き散らしているのは、ここ5年くらいの傾向として恐るべき劣化だ。もちろん、まともなコンテンツもあるにはあるし、日本人が書いているコンテンツでも、その大半は Qiita や知恵袋や Medium に殴り書きされるようなゴミクズばかりではあるが、1,000ページに1ページくらいの割合でまともなコンテンツは存在する。でも、それらの多くは体系的な情報でもなければ作成された年も古くてインストール方法が廃れていたりするし、読んでいて最も困惑させられるのが「ed を使って、じゃああんたはどんな仕事をしたの?」という、技術者としての説得力のある説明が殆どないということだ。これは、チュートリアルやマニュアルを闇雲に制作したり翻訳して公開し、アクセス・アップとか受託案件の依頼とか出版社に声をかけてほしいとか、その手のスケベ根性や自意識プレイ(もちろん、そういう理由で技術やツールを扱う人がいてもいいわけだが)でサイトを運営している手合いと区別がつかないし、要するに ed を使って何か仕事をしている人間なのかどうかという証拠になっていない。すると、使ってもいない人間のコピペや翻訳だけがウェブのリソースとして蓄積していったところで、それを読んで個別に閉じた世界で少しは技能や知見や経験を向上させる人が場当たり的に発生するとしても、ウェブを利用する人類全体としてはインターネットというネットワークを利用している意味が殆どないと言える。プログラマの全員に、会社員だろうとフリーだろうと、プロとして仕事を始めるにあたって ed のパンフレットを〈印刷して〉手渡ししているのと同じ効果しかないのだ。これでは、ed という伝統があって優れたツールを有効に使うなり乗り越えるための環境としては「劣悪」としか言いようがない。

つまり、csh のサイトを作っていたときと同じく、僕らは限界があろうと誤りがあろうと、僕らのコンピューティングという環境を用意するまでに使われてきたツールを、実は殆ど知らずに過ごしている。そして、Atom だ Emacs ださくらエディタだと言っては、しょせん趣味や性癖の問題にすぎない「エディタ戦争」を繰り返すという愚行を続ける。そういうことがいつまでも終わらないのは、一つにはそういう連中の殆どすべてがプログラマとして無能な凡人であるということに尽きているのかもしれないが、もう一つは単に歴史を知らないという理由にも求められるだろう。そういうところまで、丁寧に解説するようなコンテンツを提供したいというのが、ツール愛好者でもある僕の望みである。もちろん、仕事の道具として ed を使ってもらいたいと願ったり要求したいわけではなく、それどころか僕の論説を読んで ed を使ってみた上で、個々の人々が不満を感じて別のツールを探したり自分で開発を志してもいいはずだ。そして、重要であり願いたいのは、そういう不満とか自分で ed を使って仕事をした経験を共有することである。「インストールしてみた」なんてクズのようなページをどれほどうず高く積み上げようと、人類の知見なんて何も進歩しないし、何の業績も出せない。日本の IT 業界が徹底的にアメリカ人の技術的・理論的なおこぼれを頂戴する情報乞食に成り下がっている感があるのも(まぁ、これは哲学にも言えないことはないが)、自らこうした見識なり志をもつよう勧める〈大人〉が少ないからだと思う。子供がナウくてクールな最新の玩具に手を出してしまうのは仕方のないことだ。責任は、僕ら50代以上の大人にある。

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