Scribble at 2023-02-28 14:40:38 Last modified: 2023-02-28 22:37:55

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福岡県筑紫野市の老舗旅館「二日市温泉・大丸別荘」が大浴場の湯を年2回しか入れ替えていなかった問題で、旅館の山田真社長が28日、福岡市内で記者会見し、従業員に対し、湯を入れ替えないよう自ら指示していたことを明らかにした。「利用者の皆さまを裏切るような行為で大変申し訳ない」と謝罪した。

「大丸別荘」社長、自ら湯を入れ替えないよう指示…レジオネラ菌「大した菌ではないと認識」

この温泉が今度も悪評を被って事業を継続できなくなるのかどうかは、正直なところ哲学的にはどうでもいいことだ。恐らく社会科学的に言っても些事だと思うが、しかし考えておきたいのは、この手の事件があると頻繁に繰り返されたり蒸し返される議論だ。それは、失敗を許していいのかどうかという(「幼児の」と言ってもいいが、それは loaded language なので、敢えて言わないでおこう)議論と言ってもいい。いま実質的に loaded language を示唆したとおり、もちろんこれは愚かな幼児の議論である。なぜなら、一度だけの失敗でも許してはいけないことと、或る程度の失敗は許容してもいいこととの区別とか段階というものがあって、一律に何であろうと「失敗は許されない」だとか「どんな失敗も許される」なんていう simpliciter な主張は、およそ simpliciter な能力など持っていないヒトやヒトの社会においては貫徹しないからだ。つまり、自らも含めてヒトやヒトの社会が原理的に不完全で未熟であるほかないという、正確かつ厳密な理解をしていれば、そんな無条件の理屈が通用するわけないなんて小学生にでも分かることであって、それゆえに「小学生の理屈」とは書かずに「幼児の理屈」と書いたのだ(もちろん、これを実感としても知性としても理解できる幼児がいてもいいが)。

では、失敗が何度かは許されることから、一度も許されないことまでの段階なり基準として、どういうものが考えられるだろうか。これは、情報セキュリティやファイナンスで実務家が携わる「リスク分析」とか「リスク評価」と呼ばれるタスクでもお馴染みのことだが、問題にしている事案の重要性(影響とか損失とか、可能であれば金銭などで算出できるスキームを使うのが望ましい)と脆弱性のレベルと脅威のレベルという三つの要素を考慮して「リスク」を考えるというのが定番だろう。そして、上記の事例を使うなら、この旅館が再び湯を放置する可能性がどれほどあるか(もちろん、反省して可能性が下がるという保証はない。バカは何度でも同じことを繰り返すからだ)を考えたらいいだろう。脅威はレジオネラ菌などのウイルスであり、事案の重要性は人命であって、リスクを考慮する際の二つの要素は事故の後でも前でも、それから他の旅館においてもレベルの評価は全く同じだからである。これは企業などでリスク分析する場合でも同じ話であって、それゆえセキュリティ対策というものは企業じしんの脆弱性の話に集約されるわけである。

ただ、この場合に考えておきたいのは温泉での感染という話だけではないのが、こういう事案の影響の大きさというものであろう。なぜなら、「湯を放置するような経営者は、他のことについても杜撰なことをやっていた筈だ」と、たいていのまともな大人は想像するからだ。よって、湯について何をしようと他のことは手つかずである可能性があるため、湯の管理について何を改善したと言われても、そんな旅館を簡単に信用して訪れようとは思わなくなるわけである。あたりまえだ。なので、いちどだけの失敗なら許そうとか良い人ぶったことをどれだけ喚こうと、一度でも失敗したら客商売においては大きなダメージを被る場合もある。しかし他方で、日本の打ち上げ花火的な一過性の報道慣行からすると、この手の事案でも小さく報道されて終わりなので、知らないまま初めてこの旅館を訪れる人もたくさんいるだろう。よって、実際にはもっと手痛いペナルティを課されてしかるべき事業者がのうのうと営業を続けたり再チャレンジしている事例も多いので、逆に厳しいペナルティを課されるべきだと高らかに喚こうと、許されざる失敗を犯した者が平気で何度でも事業を始めたり営業を続けたりする場合もある。

よって、正確に事実を伝えるだけではなく、それを歴史として学び続けたり学びなおすという習慣が身に着かない民族や文化圏は、失敗のていどに応じて許容しようと無条件に拒絶しようと、原理原則とは関係のない生活しか成立しないわけである。確かに、そういう社会は大人がどれほど知った風な顔をして「これが現実だ」と言って見せたところで、幼児にとっては耐え難いデタラメな社会であろう。それは、もちろん分からなくもない。そして、幼児的な知性としてデタラメな社会に衝撃を与えたいという欲求をもつようになる人が出てきても理解はできる。ただ、それがテロなのか、大量殺人なのか、あるいは新興宗教やクズみたいな資格団体なのかオタクのグループなのかは知らんがね。

哲学者として言わせてもらうが、そういう未熟な連中のおしくらまんじゅうでは、このところ「哲学」を口にする傾向があるようなので、ぜひとも当サイトへアクセスしているような方々はご留意いただきたい。哲学の実質なり実体は、現に哲学することにあるのだ。「わたしは哲学に興味があります」とか「わたしは哲学の大学教員です」などと、わざわざ他人に向かって自意識プレゼンするようなところには絶対にない。物書きどもも含めて、そういう哲学芸人の書いたり喋っていることは、どれほどクールで Oxford University Press から著書が出版されるほどであろうと、皮肉なことだが哲学的にはクズでありガラクタである。僕は、哲学にまともな哲学も駄目な哲学もないと言っているが、「哲学をやっている」と自称している人間には、そういう区別があると思っている。かといって、自分がそういう紛い物にならないようにするなんていうスタンスこそが自意識でしかなく、本来の哲学とは関係のない「芸能プロダクション」の発想でしかない。

[追記] しょーもない温泉旅館の話から離れているが、ついでに書いておくと、simpliciter な想定は無効だという議論をすると決まって出てくるのが、馬の鼻先にニンジンをぶら下げる類の反論である・・・理想があるからこそ人は前に進んで行ける! バイ、NHK プロフェッショナルの流儀、みたいなやつだ。でも、僕は哲学者として(もちろんこの手の浅薄な反論ゆえに手軽な調子で)反論するが、いったいその「理想」とやらを誰が知っているのだろう。いや、少なくともそういう何かが「ある」と誰が保証できるんですか、というわけだ。実際には、自分たちは真理を、理想を、そして神の御心を求めているという点で、少なくとも「選ばれた人間」なのだと言い張るのが、長いものでは何千年と続いてる宗教というやつだ。PHILSCI.INFO の論説でも間接的に言及しているのだが、しょせんはこういう傲慢な錯覚にもとづく恐るべき規模や分量の文書や組織や歴史や資産という道楽や暇潰しを積み上げることでしか、「死ぬのが怖い」という強迫観念から気をそらす方法がない人々の病的と言っていい執着こそ、僕ら哲学者が一線を引かなくてはならない態度である。そういう、あるかどうか分からないようなものをあつらえて追い求めるというポーズが、最近の流行語で言えば心理的な安全性を担保してくれるのだろう。

そのような自己欺瞞や自己催眠に浸って過ごせるなら、それは愉快なことなのかもしれない。その手の理想だ真善美だという theme setting にわざわざ挑むという哲学史全体の歴史と言ってもいいようなリサーチ・プログラムにコミットしてもいいのだけれど、やはりそれは相手の土俵で一緒に暇潰しをして終わることになろう。たいていの無能な哲学教員がそうであるように、その手の土俵に上がって見せるという三文芝居を哲学のアウトリーチだ啓蒙だと言いだしては、結局のところミイラ取りがミイラになる。それを、オーソドックスな土俵で演じる歌舞伎のようなものだと尊重して取り組むのは好きにすればいいし、そこからカントのなになにだの、スピノザのこれこれだのと永久に続く堂々巡りを死ぬまでやってりゃ満足という大学教員も多い。だって、哲学者としては無能なんだから。けれど、僕が有能だと言うつもりはないが、少なくともそういう土俵に上がることが趣味的な自己満足に過ぎないと断定して距離をとるスタンスがあって、そちらにコミットする方がなんだかんだ言っても人間の尺度で言って「有益」だと思うし、主観的な尺度で言っても有意義なのである。

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