Scribble at 2022-12-16 17:47:35 Last modified: 2022-12-17 15:22:20

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自身の名を冠した「文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない」と厳命していたという。

立花隆さんの蔵書5万冊、遺志で古書店に譲渡

クエンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』という本が大阪市中央図書館に無かったため、大阪府立図書館の検索で見つけた。そういや、府立図書館ではこれまでに1度も借りたことがない。大学生時代に、府立図書館が天王寺区夕陽丘にあった頃、愛工社という業者のアルバイトとして特許資料や蔵書のコピーを担当していたことがあったのだけれど、そこに置いてあった蔵書を一度も自宅へ持ち帰って読んだことがない。当時はデイヴィット・ヒュームの研究をしていて大量の洋書を読んでいる最中で、ヒュームが生きていた当時から20世紀の初頭までに出版された、有名だろうと無名だろうと関係なく Treatise なり Enquiries について批評した著作を読み漁っていたため、府立図書館だろうと日本語の本なんて読んでる暇がなかった。そのせいで国内の研究成果を殆ど参照していない「卒論」(*) になってしまったのだが、神野、木曾、中才という研究者の著作だけ押さえておけばいいという割り切りがあったし、いまでもそう思っている。そして、修士課程へ進んで中才先生の教えを(関西大学へ講師として来られていただけなので僅かにだが)受けたおかげで、当時の政治や経済や宗教という脈絡での研究も大切だと納得できたという経緯もある。

それはそうと、いまの東大阪市に移転した(移転したのも随分と昔の話だが)府立図書館には『近代政治思想の基礎』が収められていたので、そろそろ貸し出し用のカードを作っておこうかと思っていたところである。カードを作るだけなら分館(もともとは、こっちの方が歴史は長いのだが)である府立中之島図書館でも作れる。こちらの図書館は、歩いて通勤していた時期に行き帰りで近くを通りかかるため、出社したときは立ち寄れて都合も良い・・・とかなんとか言いつつ、府立中央図書館の平面図を眺めていると、100m 四方もない建物にどれほどの蔵書があるのだろうかと思ったのであった。100m 四方で地下の数階にしか書庫がないなら、いっぱいになって除籍本が出てくるのも時間の問題であろう。とは言え、いくら蔵書があろうと、人が一生に読める本なんて何冊あろうか。そう思っているうちに、蔵書が多いと言われていた立花隆氏や猪瀬直樹氏は何冊を持っていたのか、知りたくなって調べていたのである。

立花隆氏は、「ネコビル」と呼ばれたビルに5万冊を所持していたという。猪瀬直樹氏の蔵書は分からなかったが、僕が大学生の頃に読んだ、書斎をテーマにしたムック本で紹介されていた30年くらい前ですら、既に蔵書用にマンションの部屋を借りているという話があったため、少なくとも1万や2万はあったのだろう。いずれにせよ、個人としては桁違いの蔵書である。学術研究者でも、せいぜい1万冊あるかないかであろう。僕らのように博士課程くらいまで進んだ学生なら、分野にもよるが5,000冊前後ではないだろうか(学者との差があまりないのは、もちろんプロパーは大学から書籍代が割り当てられるから、自分の蔵書として買ったり自宅へ置く必要がないためだ)。なお、僕の蔵書は数える気もしないから確かなことは言えないが、平均して25冊くらい入るボックスで120個ぶんくらいは自宅にあるし、実家にも40冊くらいは入る段ボールで20個ぶんは本があるから、雑に言って約4,000冊といったところだろう。もちろん、いまどきは PDF の電子書籍があるため、それらを加えたら更に増える。

というところまできて、やっと立花隆氏の蔵書について調べたら上記の記事を見つけたという話にたどりつくわけである。「妹で秘書だった菊入直代さん(77)に『「立花隆が持っていた本が欲しい人」でなく、本の内容そのものに興味がある人の手に渡るようにしてほしい』と言い残していた」とのことで、大半の蔵書は古書店に売却されて、再び本の内容を必要とする人々の手に渡ることとなったわけである。敬服に値する見識だと思うのだが、立花氏は蔵書に書き込みする習慣があったらしいから、どうしても「立花隆の書き込みが入っている」という理由でプレミアをつけようとする人が出てくるのかもしれない。

(*) 法学部には卒論という制度がない場合もあり、僕が卒業した大阪経済法科大学法学部にも、いまは知らないが卒論を提出する必要がなかった。関西大学の大学院を受験する際に卒論を提出する要件はないのだが、学部を卒業するに当たって成果を出そうと思って、自主的に卒論相当と思うものを書いたわけである。PHILSCI.INFO で公開している「ヒュームの関係概念」という論説が、僕にとっての「卒論」である。法学部法律学科で刑事法学を専攻していた人間が18世紀のイギリス哲学で卒論を書くのも変な話だが、在籍していた頃から哲学で修士課程に進むという話は教員にも明言していたので(先生方や事務方からは、司法試験を受けて実績作りをしてくれた方がありがたいという意見もあったが)、それはいいのだ。この「卒論」は、もちろん恩師の一人である竹尾治一郎先生に提出したものである。

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