Scribble at 2022-12-10 14:46:28 Last modified: 2022-12-10 14:46:37

ほぼ日手帳について書いたり、あるいは他にも LIFE のルーズリーフを愛用してる話とかも書いているけれど、なんだかんだ言っても昨日の落書きで書いたように、紙の質なんて言ってるレベルは職業人としても学者としても、あるいは社会人としても程度が低いということなのである。そういう成金の尺度で人の暮らしや生き方や仕事の成果が比例すると考えること自体、中身が空っぽで青山とか吉祥寺とかのセコい建物でトーク・ショーとかを開いてるクズみたいな文化人様と同じレベルの連中というわけである。ノートに何を使うかなんて、それによる成果や実績と何の関係もない、ただの趣味であり贅沢だ。

こういうことを堂々と言えるのは、あからさまな実例を知っているからである。北陸で大学教授をやってる高校時代からの友人が典型だと思う。彼は高校生の頃からコクヨの、それこそコンビニエンス・ストアですら売ってないような、文具店が10冊セットで投げ売りしてるようなノートをずっと使っていた。そして、学年でも上位の成績を維持し続けて京大へ進み、経済学者となった。彼が Maruman のダンディーなノートとか、1冊3,000円くらいする華美な表紙のノートを文具店で手に取ったり眺めていた様子など全くない。そして、高校時代には他の同級生を見ていても、成績の良い人に限ってノートはありふれたものを使っていたという印象がある。つまり、ノートのブランドとか外見とか書き心地なんてものにこだわるような態度を趣味的に続ける連中に限って、成績は悪かったのだ。

簡単なことである。能力がある人は、ノートなんてコクヨの100円ノートだろうと関係ない。学業や能力の原因とか本質は、道具ではないからだ。当たり前である。ほぼ日のユーザでも、多くの人は自覚があるだろうけれど、実際のところノートなんかで生産性や成果の水準とか質が変わったりなんかしない。逆に言えば、ノートごときで影響があるレベルの仕事や趣味なんて、誰がやってもいいんだよ。

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