Scribble at 2025-07-01 12:24:04 Last modified: 2025-07-14 09:34:24

少ない本を精読するのが本来の僕の読書スタイルなのだけど、もちろん巷にあふれている文庫や新書あるいは単行本でも軽い読み物などは、子供の頃からたくさん読んできたし、いまでは小説すら読むようになった。30代くらいまでは、小説を手に取ることは殆どなくて、せいぜい高校の文藝部に所属していた頃に『ザ・漱石』とか『ザ・龍之介』といった、作品を一冊にまとめたもの(洋書なら The Portable Mark Twain みたいなものか)を通読したくらいのものだった。簡単に言えば、作り話に用はなかったし、同じ作り話なら映画やアニメのほうが手っ取り早いというわけである。いまとは逆で、いやいまでもそうなのだろうけど、「自分のであれ他人のであれ、言葉を信じる」という意味が分かると言えるか言いたくなるほど言語にコミットする気になれないところがあるからだ。

しかし、もちろん絵画や音楽が代わりになるわけでもないし、補助になるわけでもない。どういう記号操作をしたところで「分かる」とか「コミュニケーション」という概念そのものが認知科学の限界ゆえの暫定的な作り話にしか思えないようなところがあって、僕が科学哲学を専攻した理由の根っこには、そういう意味での「哲学的なお喋り」が信用できない、しかし科学も結局は「根拠ゲーム」や「正当化ゲーム」の道具にすぎない哲学を利用したり哲学で裏打ちされているようなところがあるという情景を、自己欺瞞の余地なく冷静に理解したいという動機があったからなのだろう。たぶん、cognitive closure を支持しているのも、同じような動機にもとづいている。

要するに、僕は学問や知識のケーパビリティを、その成果である技術の恩恵を受ける一人としては信頼しているけれど、哲学者としては信頼しない。もちろん一定の成果は上げ続けるだろうし、便利で強力な営みであることは認める。しかし、皮肉なことだが、哲学的に言えばそのていどの可能性なんて些末な話である。哲学というスタンスで言えば、たとえば不老不死ですら些末なタスクに過ぎない。そんなことだけで存在の問いが解決するはずもないからである。そういう意味での凡庸な生物は、永遠に生きたとしても哲学の課題を解決できはしない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る