Scribble at 2024-11-29 20:53:38 Last modified: unmodified
哲学には「どうして何かがあるという状況が起きているのか?」という問いがあって、一部では「究極の問い」などと呼ばれる。これには幾つかのバリエーションがあって、「なぜ何も無いのではなく何かが有るのか?」とか、英語では "why there is something rather than nothing?" と表現されたりする。端的に言えば、何かがそもそも有るなんてことが成立しているのはどうしてなのか。この宇宙なんてなくても良かったし(もちろん論理的には可能である)、いやそれ以前に「有る(存在)」ということがらが可能でなくてもよかった(たぶん、これも論理的には可能である)のに、どういうわけか有るということがらは成立している。この宇宙が有ることと、有るという何事かが成立してることとが、同じことであると仮定してもいいし、しなくてもいいわけだが、少なくとも有るという何事かが成立する根拠なくして宇宙は存在し得ないのであるから、どう考えても有るということの根拠の方が重要である。これは、いまのところは「この宇宙が『有る』」と言語的に表現するには「有る」という言葉が必要であるという事情とは全く別のことがらであって、文法上の必要性とは関係がない。ただし、認知能力の問題から言って、名詞しか持たない言語の民族がいたら、果たして僕がここで表現している問いを理解できるかどうかは不明である。したがって、もしかすると人類の一部の種族なり文化圏の民族が、こういう文法をもつ言語を使うからこそ、それに該当する概念を運用する上で、このような問いを自ら組み立ててしまったのかもしれない。そういう発生論的な説明によって、この問いが、分析哲学で言うところの "explain away" される可能性はあろう。
標準的な議論では、まず「有る」ということがそもそも不思議であると自覚してもらう必要がある。そのために、哲学の通俗本や教科書では、そもそも何かが有るということ自体が考えようによっては奇妙なことであるという、文学的な異化を読者に生じさせるような文章を駆使しなくてはいけない。もちろんだが、僕はそんなことをする必要など感じていないので(感じない人は、こういう問いを考えなくてもいい)、感じてしまう人だけにわかればいいことを書くが、この問いは「有る」ということの奇妙さをどうこう言うよりも前に、そもそも "why" が正当であるかどうか、つまりこれを問い、しかも "why" で問うべき問いとして投げかけたり理解することそのものが妥当であって、言葉遣いとして不自然さがないからといって正当な問いであるかのように自分自身を言葉や観念で騙していないかどうかを検討するべきである。つまり、どういう立場や目的や態度や動機やタイミングであろうと「哲学している philosophize」人として避けるべき自己欺瞞に陥っていないかどうかを吟味することが重要である。
すると、有るということについて「なぜ」とか「どうして」と問うことが不適切であることはすぐに分かる。有るということは誰かが何かの目的で「やっている」ことや「用意を整えた」ようなことではないからだ。神? 知るかそんなもん。ただの文化人類学的に(あるいは心理的に)有能なだけの記号だとしても知るか。しかし、だからといって他に "what" や "how"(まさか "who" はあるまい)で問うとしても、そこには何か僕ら人類が納得とか理解という枠に収めるべき答えなり認知的な内容が適応するとは思えないわけである。なぜなら、仮にビッグ・バンをそもそも引き起こした原因だとか超物理学の理論が見つかったとしても、やはりわれわれはどうしてそんな原因がありえたのかとか、なんでそういう理論が成立するのかを問えるからだ。