Scribble at 2022-10-22 08:55:10 Last modified: 2022-10-23 11:12:26

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大鏡の原典あるいは手に取りやすい概説として、上記の著作物がある。既に品切れのタイトルもあるため、一読されるなら古書店やアマゾンなどで購入するか、あるいは公共図書館で借り出すのがよいだろう。なお、上記は一部にすぎないし、高校の古文で使われる学習要綱に準拠した副読本の類は割愛してある。更に上記の中で『大鏡 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス、角川書店、2007)は書店で手に取っただけで所有はしていない。

僕が重視したりお勧めする原典としては、左から順番に高く評価している。

まず橘・加藤両氏による『新編日本古典文学全集 (34) 大鏡』(小学館、1996)を、現時点で最もスタンダードな注釈書と評価することに強く反対するプロパーや高校教員はいない筈だ。他にも更に最新の注釈書はあるが、それらは専門書として出版されており、桁違いの価格であるため、店頭にないというばかりか高額であるという点でも入手しやすさとして「スタンダード」とは言えまい。もちろん内容としての評価は別だが、そもそも公共図書館にすら所蔵されておらず手に取れない高額な書籍を、僕は実際に読んで評価することはできないのだから比較不能である。ともあれ、橘・加藤本は珍しく二色刷りとなっていて、中央に余裕のあるレイアウトで本文があり、上段に注釈、下段に訳文と配置された、非常に読みやすい体裁を採用している。単行本であるから、僕らのような老眼の者でも(少なくとも本文は)読みやすい。

次に注釈書としては、松村『日本古典文学大系 21 大鏡』(岩波書店、1960)がよい。後で同じ人物の文庫本と比較するが、こちらは文庫本よりも注釈が詳しい。また、本書は東松本(とうまつぼん)と呼ばれる写本を元にしていて、東松本には裏書があるため、その裏書も掲載してある。研究者にとっては文庫版よりも圧倒的に便利な原典であろう。なお、本書は現在だと岩波書店でオンデマンド出版で9,000円ほどの値段がついているため、手に入れたいならアマゾンで古本を買うことをお勧めする。(古本の衛生状態を気にする人のために新しく製本するから値段が高くなるのだろうとは思うし、これはこれでコストとしては仕方ないのかもしれないが、正直なところ古本を手にして何らかの感染症や皮膚病を患った人なんていないと思う。古本が他人の持ち物だったという事情で、或るていどは不衛生であると思うのも無理はないのだが、そもそも古本全般を不潔だと見做すような感覚は、大昔の「古本=読書人=作家=結核」といった連想というか妄想によるところが大きいと思う。)

次に、佐藤『大鏡』(角川ソフィア文庫、角川書店、1969)は原文と注釈のついた原典である。巻末に人名索引と地名索引がある。注釈付きの原典としてはスタンダードな体裁であり、昨今のように現代語訳をつけなくても、草書などで書かれた底本から原文に置き換えるだけで読める人がいた時代の著作である。現在は、現代語訳をつけない原典は、多くの人(特に学生)にしてみれば解答を掲載してない問題集という不親切極まりない教材のように見えるだろう。だが、原典はこういうものであってよいと僕は思う。筋書きを現代語として読みたいだけなら、次に紹介する保坂氏の現代語訳だけを掲載した本でいいはずだからだ。原典というものは自分で(不十分や誤解があろうと)読み進める経験に本来の意味があり、模範解答と一緒に読まなくては不安だというなら、その人は既に古典には「正しい」読み方があると思っているのだから、現代語訳の本だけを読めばいいのである。

そして次に、保坂『大鏡 全現代語訳』(講談社学術文庫、講談社、1981)である。これは現代語訳と注釈だけで構成された、一気に読むことを念頭につくられた著作だ。ごく普通の現代文の著作物として読み進められるが、やはり固有名詞や有職故実にかかわる史実については注釈がないといけない。そこまで現代風に言い換えてしまうと、それこそ「超訳」や坊主の適当な現代訳になってしまうからだ。あと、冒頭にはいささか辟易させられるマッチョな文章が置かれているため、現代語への訳出に影響があるのかどうかは知らないが、ひとまず無視してもいいだろう。

それから、松村『大鏡』の岩波文庫版(1964)である。こちらが後から出ており、日本古典文学大系版から多くの内容をカットして文庫の体裁に改めたというべきだろう。よって、原文とわずかな注釈しかないため、これだけで素人が読み進めるのは現代語訳が全くないため非常に難しく、どちらかと言えば底本からどのように原文を構成したかという観点で、専門家として参考にするための資料という体裁に思える。これを古語辞典もなしに読み進められる現代人はいないだろうし、古文の勉強をせずにこれを読んで理解できる高校生などいまい。

そして最後に、武田氏の『大鏡 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』は昨日の休憩時間に書店で手に取ってみたのだが、ほぼ高校の副読本と体裁は同じであり、主要な内容を描いた一部の抜粋について解説してある本だ。おおよその内容をつかむにはいいが、これを通読したていどで『大鏡』を読んだと言われても困る。

(*) これらの書籍をどう呼ぶかは専門用語としては知らないため、上記では筆で書かれた写本として伝わっている書物を「原本」あるいは「底本」と呼び、それを万葉仮名あるいは草書体などで書かれた文字の解読という作業を含めて書き下した(本来の「書き下し」とは漢籍を日本語の文章へ変換する意味だが、和本でも或る種の解読作業を通じた変換とも言える)書物を「原典」と呼ぶこととした。他の用語では「刊本」という言葉もあるが、僕らの使う原典は底本の手書き文字を活字にしたというだけではないため、ここでは使っていない。そういう言葉は、底本あるいは原本の写真と書き下し文とを対照させた、研究用の資料としての出版物だけを指す方がよいと思う。

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