Scribble at 2022-10-20 08:42:54 Last modified: 2022-10-20 15:04:39

歴史の研究にはいくつかのアプローチがある。ここ最近の落書きで話題にしてきた『大鏡』という古典作品の舞台である平安時代後期についても、一つのアプローチでは、作品を正確に理解するための背景情報を具体的に突き止めたり推定するための十分な根拠を与えたりする。しかし、或る日の藤原道長がどれくらい髭を伸ばしていたのかとか、何時に寝たのかとか、具体的にその日は何を食べたのかとか、そういう事実を情報として詳細に突き止めることだけが歴史学の研究ではない。

しばしば田舎の郷土史家を始めとする多くの人々がステレオタイプとなっているように、歴史について調べたり学んでいる人々が、あたかも過去の事実を正確に(あるいは単に)知ることだけを目的としているかのような誤解が定着しているように見受ける。したがって、無関心であるか何らかの反感をもつ人たちからは「好事家」だの「暇人」だの「生産性がない」だの「文系」だのと侮蔑されるわけである。

しかも、僕が思うに我々日本人は、数多くの名刹や文化財に囲まれているにも関わらず、本当のところ歴史については大して熱意も関心も持っていない国民だと思う。自分を含めて誰のであれ、過去の成功だろうと失敗だろうと、すぐに忘れてしまい、記録を正確かつ不足なく保存する習慣や体制を構築したり維持することを怠り、いまある記録でも国家官僚から零細企業の事務員に至るまで、自分の都合に応じて幾らでも捨てたり廃棄する。まったくもって、我々は歴史を顧みる慣習や意欲を伝統として醸成してこなかった刹那主義の民族だと言ってもいい。そしてそれゆえ、同じような災害で土地や家屋や人命を失っても、再び同じ場所に住み始めては同じ災害に見舞われるという愚行を何千年も繰り返す。そして、それが自分たち自身による、歴史を軽視する習慣や態度によるものかもしれないという反省を全くしない。皮肉にも、母国が侵略される様を描くマゾ小説を数多く流通させたり、国土が崩壊する『日本沈没』なんて作品を「滅びの美学」とばかりに大衆文学の古典として扱っているのは、世界中でこの国だけなのである。

しかし、歴史というアプローチにはもう一つの重大な手法があり、僕らはかつて考古学を学んだ者として、こちらのアプローチを軽視してはいけない(しかし拘泥してもいけない)と教えられたものである。それは、もちろん個々の事実を突き止めるだけではなく、事柄同士の影響とか因果関係を推定したり論証することである。事柄同士の関係は、その大半が推定によってしか述べられないため、研究者によって内容に一致しない点が多い。これは教科書に書かれるほど有名な事件が起きた年を変更することがあるという事実でも分かるだろう。僕らが高校で日本史を習った頃は、「鎌倉幕府の成立」と言えば「いいくにつくろう、かまくらばくふ」などと語呂合わせで覚えさせられたように、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年というのが常識だった筈である。そして、多くの歴史学プロパーもそう思っていただろう。しかし、現代の高校生が授業で教えられるのは頼朝が自らの配下として守護と地頭を配置する権限を朝廷から与えられたとされる1185年である。しかし、これは何かの新発見によって動かぬ証拠があって変わったわけではない。当たり前のことだが「この年に鎌倉幕府を作る」と過去の人物が宣言した古文書なんて存在しないし、そういう古文書が仮にあったとしても、実質的に幕府が成立したという評価の上に立って定義した「幕府の成立年」という基準を動かすようなものではないだろう。

かようにして、個々の事件や事実が起きたとか終わったといった、点だけで過去の史実を語るような短絡とは違って、本来の歴史学は一つの経緯の中で何が起きたのかを後世の観点から評価したり定義するようなアプローチも採用される。個々の事実を時代順に列挙して記述するだけなら、それは「歴史」の叙述とは言えないのであって、たいていの不見識なアマチュアやプロパーが書く文章には、そういう理解が不足しているからこそ、多くの人々にとっては「A があって、B があって、C があって・・・」と出来事の説明を単に並べているだけにしか思えず、「だから何なんだよ」という誠に正当な不満が現れるわけである。

しかし、上記で「拘泥してもいけない」と述べたように、歴史の推移や影響関係や事実関係といった多元的な観点を要するアプローチには、研究者それぞれの背景知識や意図や定義といった、必ずしも本人が自覚しているとは限らない偏見とか無知も含めた色々な前提があって理屈が整えられるため、小説家を始めとするアマチュアが気楽に「古代史のロマン」などと称して愚劣な想像を売りさばくのと変わらないレベルの愚かな学説が吹聴されるリスクもある。たとえば、民族差別や歪んだ自己愛などといった動機で中国や韓国を執拗に敵視して描く無知無教養な構成作家風情の駄本などが典型だろう。個々の事実を正確に記録したり再現するというアプローチは、いまでは国文学や言語学や古文書学だけでなく生物学や土壌学や生化学や天文学といった手法を使うようになっているため、ウィキペディアからコピペして日本の歴史を説明するような手合いには関与できないレベルの研究となっている。そのため、歴史について何か目立つパフォーマンスをしたい人々は、正確な情報が不足しているという状況を逆手に取って、無知無教養でも文字が書けるというだけの理由で馬鹿げた作文を「歴史」と称して売りさばこうとするわけである。

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