Scribble at 2023-04-12 08:35:37 Last modified: 2023-05-08 21:10:03
寝所でチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』という作品を読んでいる。以前から書店で見かけるたびに興味を惹かれていた作品で、ついには単行本が文庫本として再刊されるまで放っておいたのだが、図書館で見かけたのを幸いとして借りてきた。正直、もう小説をいちいち買って読むほどの意欲がなくなってしまっていたのだが、何度も手に取る価値があるものを見つけたら、やはり買って手元に置きたいという僅かな欲求は残っている。
大部の作品であるから、少しずつ読み進めている。それから訳者の解説をざっと眺めたりして、「ああそうだ。そういえば僕も、ミシェル・オバマって、なんだかカツラを被ってるような印象があるな」と思ったりする。でも、アフリカ出身者が書いてるから「許される」のだろうし、日本でも部落出身者や在日朝鮮人が書いても「許される」のかもしれないけど、アフリカ人がアフリカ出身のアメリカ人について、あけすけなステレオタイプの描写をこれでもかと細かく書き連ねる様子を見ているのは、なんだか別の民族・人種の人間としてではなく、単純に一人の人間として複雑な違和感を覚える。その繊細な描写を読み続けることで、少しずつ何かを刷り込まれていくような不愉快さがあるからだ。これは、アチェベやナイポールの小説を読んだときにも感じた不愉快さなのだが、しかし振り返ってみれば、それを不愉快だと感じるのは、僕が「先進国の日本で生きている、或る意味では裕福な境遇の人間」だからなのかとも思い返さずにはいられなくなるのも事実だ。アフリカ人がアフリカをこんな風に描写するなんて、という不愉快さを東アジアの辺境地帯に住む者が勝手に感じるなんて。まるで都内のインテリ左翼だな。
[追記:2023-05-08] 実は、途中から読む気がなくなっているため、次回の貸出期限日に返却しようと思う。理由は簡単だ。恋愛小説だと分かったからである。僕は、恋愛小説なんていまごろになって読むつもりはない。たとえ、書いているのが PC 的に「正しい」アフリカ人だろうとフェミニストだろうと、そんなことはどうでもよい。恋愛小説なんてものを読むのに使える人生の残り時間はないのだ。僕は、高校時代に自分のファンクラブがあって女子生徒が後をゾロゾロと着いてきたことがあるくらいの人間なので、他人の恋愛なんて気にする必要などないのである。